押井守
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飲んだくれだったが、映画好きで、幼い押井を毎日のように映画館に連れていった[11]。母親は洋装店を経営しており[11]、収入はもっぱら母によるものだった[12]小学校の高学年の頃から父から英才教育を施されたため、体育以外の学科の成績は全て5であったが[13]中学受験には失敗し、その後父親の教育熱は冷めたという[14]。中学時代にはSF小説に熱中し、SF小説家を志すようになる[15]

東京都立小山台高等学校入学後、不登校がちになる代わりに学生運動に熱中[16]私服警官が家を訪れる事態にまで至り、危機感を持った父親によって高校最後の夏に大菩薩峠の山小屋に軟禁されることになる[17]。そのうちに学生運動のピークは過ぎ、運動に対しても醒めるようになる。学生運動は後に押井の原風景となって、いくつもの作品に顔を出している。

1970年東京学芸大学入学後は映画に熱中し、年間1000本程の映画を見るようになる[18]。既存のサークルである映画研究会と袂を分かち、新たに「映像芸術研究会」を設立、自ら実写映画を撮り始める[19]。後に『平成ガメラシリーズ』を監督する金子修介はこの時のメンバーで、押井の直接の後輩である。金子のほかに当時一橋大学の学生で後に防衛大学校教授となる荒川憲一が所属していた[注釈 1]。後年『機動警察パトレイバー2 the Movie』に登場する自衛官・荒川茂樹のモデルとなった人物が荒川である。

大学に入学してからの2年間は、ほとんど授業に出ておらず、2年間で2単位しか取っていなかった[20]。押井は留年することになったが、その後もさらに2年間ほとんど大学に通わなかった(合計4年間)。当時の押井にとって大学は、留年はするけども、1単位も取らなくても4年間は放り出されないことに意義があり、無条件に自分の時間と場所を確保できたこと、それが唯一の成果だったと回想している[21]

学生時代に小学校に教育実習に行ったので子供の扱い方には慣れていると述べており[22]、この時の体験が映画監督としても役立っているという[23]。就職活動では映像関係の仕事を志望し、テレビマンユニオンぴあ国立フィルムセンターを受けるが全て不採用だったため、知人の紹介で知ったラジオ制作会社に内定を得る[24]。卒業とほぼ同時に大学在学中に市民合唱団で知り合った女性と結婚[25][26]
アニメ業界入りから独立まで

1976年、ラジオ制作会社に就職して番組を制作していたが、給料の不払いが続いたため10ヶ月で退社し[27]、広告代理店の下請けであるCMモニター会社に転職する[28]。この時に後の師匠となる鳥海永行が演出した『科学忍者隊ガッチャマン』を観て感銘を受ける[29]。この仕事にも見切りをつけ、教員採用試験を受けることにするが、願書を預けていた知人が提出し忘れたため採用試験を受けることはなかった[30]

1977年一橋学園駅付近の電柱に貼ってあった求人広告を見て竜の子プロダクションに応募し合格[31]。当初は事務雑用を担当していたが、演出の人手不足からすぐにアニメ演出を手掛けるようになり、やがて、2年早く入社した西久保瑞穂真下耕一うえだひでひとと共に「タツノコ四天王」の異名を取るようになる。なお、西久保と真下が演出助手から始めたのに対して、押井は最初から演出を任されていた。独特のギャグの才能をタツノコプロ演出部長の笹川ひろしに買われて、『タイムボカンシリーズ』を長く担当。

1979年、私淑する鳥海永行に続く形でスタジオぴえろに移籍[32]。テレビアニメ『ニルスのふしぎな旅』のレギュラー演出家として鳥海の下につく。

1981年、テレビアニメ『うる星やつら』のチーフディレクターに抜擢。1983年、劇場版第1作『うる星やつら オンリー・ユー』で監督としてデビューする[33]。同時期に離婚している[34]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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