押井守
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ジェームズ・キャメロンウォシャウスキー姉妹クエンティン・タランティーノギレルモ・デル・トロなど世界的クリエイターに影響を与えた[8](詳細は#人間関係を参照)。ハリウッドからの企画で『Halo Legends』や『Sand Whale and Me』の監督を務めている。2016年度米アニー賞において、生涯功労賞にあたるウィンザー・マッケイ賞が授与された[9]

個人事務所は有限会社八八粍。事務所所在地は東京都港区虎ノ門。押井自身の全額出資によって設立された。プロデューサーには石川光久鈴木敏夫石井朋彦と組むことが多い。若手育成のためProduction I.G社内で「押井塾」を主宰するなどしている。

姉は舞踏家最上和子。映画ライターの押井友絵は前妻との間にもうけた長女。押井友絵は2006年小説家乙一と結婚している[10]
来歴・人物
生い立ち

東京都大田区大森出身[2]。母親が後妻だったため、年の離れた腹違いの兄と、下の兄、姉の四人兄弟の末っ子として生まれる[2]。父親は山形出身で、興信所を開き、私立探偵として浮気調査などをしていた[11]。飲んだくれだったが、映画好きで、幼い押井を毎日のように映画館に連れていった[11]。母親は洋装店を経営しており[11]、収入はもっぱら母によるものだった[12]小学校の高学年の頃から父から英才教育を施されたため、体育以外の学科の成績は全て5であったが[13]中学受験には失敗し、その後父親の教育熱は冷めたという[14]。中学時代にはSF小説に熱中し、SF小説家を志すようになる[15]

東京都立小山台高等学校入学後、不登校がちになる代わりに学生運動に熱中[16]私服警官が家を訪れる事態にまで至り、危機感を持った父親によって高校最後の夏に大菩薩峠の山小屋に軟禁されることになる[17]。そのうちに学生運動のピークは過ぎ、運動に対しても醒めるようになる。学生運動は後に押井の原風景となって、いくつもの作品に顔を出している。

1970年東京学芸大学入学後は映画に熱中し、年間1000本程の映画を見るようになる[18]。既存のサークルである映画研究会と袂を分かち、新たに「映像芸術研究会」を設立、自ら実写映画を撮り始める[19]。後に『平成ガメラシリーズ』を監督する金子修介はこの時のメンバーで、押井の直接の後輩である。金子のほかに当時一橋大学の学生で後に防衛大学校教授となる荒川憲一が所属していた[注釈 1]。後年『機動警察パトレイバー2 the Movie』に登場する自衛官・荒川茂樹のモデルとなった人物が荒川である。

大学に入学してからの2年間は、ほとんど授業に出ておらず、2年間で2単位しか取っていなかった[20]。押井は留年することになったが、その後もさらに2年間ほとんど大学に通わなかった(合計4年間)。当時の押井にとって大学は、留年はするけども、1単位も取らなくても4年間は放り出されないことに意義があり、無条件に自分の時間と場所を確保できたこと、それが唯一の成果だったと回想している[21]

学生時代に小学校に教育実習に行ったので子供の扱い方には慣れていると述べており[22]、この時の体験が映画監督としても役立っているという[23]。就職活動では映像関係の仕事を志望し、テレビマンユニオンぴあ国立フィルムセンターを受けるが全て不採用だったため、知人の紹介で知ったラジオ制作会社に内定を得る[24]。卒業とほぼ同時に大学在学中に市民合唱団で知り合った女性と結婚[25][26]
アニメ業界入りから独立まで

1976年、ラジオ制作会社に就職して番組を制作していたが、給料の不払いが続いたため10ヶ月で退社し[27]、広告代理店の下請けであるCMモニター会社に転職する[28]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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