押井守
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学生時代に小学校に教育実習に行ったので子供の扱い方には慣れていると述べており[22]、この時の体験が映画監督としても役立っているという[23]。就職活動では映像関係の仕事を志望し、テレビマンユニオンぴあ国立フィルムセンターを受けるが全て不採用だったため、知人の紹介で知ったラジオ制作会社に内定を得る[24]。卒業とほぼ同時に大学在学中に市民合唱団で知り合った女性と結婚[25][26]
アニメ業界入りから独立まで

1976年、ラジオ制作会社に就職して番組を制作していたが、給料の不払いが続いたため10ヶ月で退社し[27]、広告代理店の下請けであるCMモニター会社に転職する[28]。この時に後の師匠となる鳥海永行が演出した『科学忍者隊ガッチャマン』を観て感銘を受ける[29]。この仕事にも見切りをつけ、教員採用試験を受けることにするが、願書を預けていた知人が提出し忘れたため採用試験を受けることはなかった[30]

1977年一橋学園駅付近の電柱に貼ってあった求人広告を見て竜の子プロダクションに応募し合格[31]。当初は事務雑用を担当していたが、演出の人手不足からすぐにアニメ演出を手掛けるようになり、やがて、2年早く入社した西久保瑞穂真下耕一うえだひでひとと共に「タツノコ四天王」の異名を取るようになる。なお、西久保と真下が演出助手から始めたのに対して、押井は最初から演出を任されていた。独特のギャグの才能をタツノコプロ演出部長の笹川ひろしに買われて、『タイムボカンシリーズ』を長く担当。

1979年、私淑する鳥海永行に続く形でスタジオぴえろに移籍[32]。テレビアニメ『ニルスのふしぎな旅』のレギュラー演出家として鳥海の下につく。

1981年、テレビアニメ『うる星やつら』のチーフディレクターに抜擢。1983年、劇場版第1作『うる星やつら オンリー・ユー』で監督としてデビューする[33]。同時期に離婚している[34]。劇場版第2作『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』では1984年キネマ旬報読者選出ベスト・テン第7位(邦画)を記録し、アニメ監督として頭角を現す。

1984年、『うる星やつら』を降板すると同時にスタジオぴえろを退社。以後フリーランスの演出家となる。同時期に再婚[35]1985年徳間書店徳間康快のバックアップにより、スタジオディーンの制作でOVA天使のたまご』を完成させるが、興行的に失敗[36]。この頃、宮ア駿の事務所に居候しており、宮崎の推薦で劇場版『ルパン三世』の監督を引き受けるが、「ルパンという人物自身が虚構であった」というアイデアの賛同を得ることができず、監督を降板する[37]
Production I.G以後

天使のたまご』によって「難解でわけのわからない作品を作る監督」との評判が立ち、アニメの仕事依頼が無くなってしまい、数年間ゲームをして過ごしていた[38][39]という。この間、TVアニメ「赤い光弾ジリオン」に匿名で絵コンテを担当したほか、OVA『トワイライトQ』にも参加した。

1987年、声優・千葉繁のプロモーションビデオを自主制作する話が発展し、『うる星やつら』も担当した音響制作会社オムニバスプロモーションの製作による実写作品『紅い眼鏡/The Red Spectacles』を監督。これ以後、アニメのみならず、実写にも活動の場を広げる。

1988年、OVA『機動警察パトレイバー』の企画に原作者集団”ヘッドギア”の一員として参加。監督として第一線に復帰する。続けて1989年に公開された劇場アニメ『機動警察パトレイバー the Movie』で第7回日本アニメ大賞を受賞。活動の拠点をProduction I.Gへと移した。以後、Production I.Gにはフリーでの参加ながら、企画者育成のために「押井塾」を主宰するなど、中心的役割を担っている。IGポートの大株主の1人でもある。

1991年には『ケルベロス・サーガ』の第2作として『ケルベロス-地獄の番犬』を公開。本作のロケハンで移動中、台北へ向けて搭乗するはずだった飛行機が墜落、乗員・乗客全員死亡という惨事が起こるが、予算の都合で飛行機を諦めてクルマで移動することに変更したことで難を逃れている[40]

1993年静岡県熱海市に転居[41]。『機動警察パトレイバー 2 the Movie』が公開。

1995年、映画『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』が公開。米『ビルボード』誌のホームビデオ部門で売上1位を記録。スティーヴン・スピルバーグジェームズ・キャメロンなどに絶賛され、海外での評価が高まる。

1997年バンダイビジュアルデジタルエンジン構想で、製作費24億円の大作映画『G.R.M.』(ガルム戦記)の制作を発表するが、1999年に企画凍結となる。

2004年に発表した『イノセンス』が第57回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門にノミネートされた。カンヌ国際映画祭のコンペ部門に日本のアニメーション作品が出品されるのはこの作品が初めてであった。

2005年愛知万博にて、中日新聞プロデュース共同館「夢みる山」で上映した映像作品『めざめの方舟』の総合演出を担当した。

2008年、『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』がヴェネツィア国際映画祭コンペティション部門ノミネート。フューチャー・フィルム・フェスティバル・デジタル・アワード受賞[注釈 2]。第41回シッチェス・カタロニア国際映画祭で批評家連盟賞とヤング審査員賞を受賞。

2009年は、6月公開の『宮本武蔵 -双剣に馳せる夢-』で、原案・脚本を手がけた[42]。12月には単独作品としては8年ぶりの実写映画となる『ASSAULT GIRLS』が公開された。

2015年、1982年に製作されながら未公開となっていた『劇場版 ニルスのふしぎな旅』が初の劇場公開[43]。『ガルム・ウォーズ』公開。

2018年4月、国際リニアコライダー(ILC)の日本誘致を目指すプロジェクト「ILC Supporters」の発起人を務めることを発表[44]


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