折笠愛
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当時は洋舞、タップダンス、クラシック、声楽などを学び、日本舞踊は先生の内弟子のようなことも少しして、一時、集中して習うほど熱心だったという[14][16]

その後は、家庭の事情で芝居をやめて家のお手伝いなどをしていた[17]
キャリア

半年も経たないうちに沸々と「私の道はこれではないんじゃないか」、「また私の中の芝居をしたい」と思うようになり、新聞に載っていた「子供に見せるミュージカルの出演者募集」に応募して「子ども劇場」に入団[17]。オーディションを受けていたところ主役に選ばれ[6]、その後は劇団文芸座、劇団創演、フリーで女優として舞台に立つ[3]

JRが企画した舞台『伊豆の踊り子』の踊り子役に抜擢され、並木史朗舟木一夫らと共演[14][17]。この時に使った芸名は大島 由季仔[10][18]。しかし大人が反応する芝居をしたくなり、個人で挑戦したりもしたが、それでは食べていけず、子ども劇場を5、6年続けていた[6][17]。悩みを感じ出していた時に舞台で共演していた緒方賢一大山高男に勧められて[3][14]、見に行っていたぷろだくしょんバオバブマネージャー(当時)兼声優のたてかべ和也に「折笠いいねえ!」とぷろだくしょんバオバブに所属[6][17]。舞台でも少年役、ジュール・ルナールの『にんじん』を演じることがあり「声優としてもできるのではないか」ということで、たてかべがオーディションの枠で持っていたテレビアニメ『小公子セディ』のオーディションに参加[6][11][14]。オーディションでの何度かの選考を経て、1988年に主人公・セディ役で声優としてのデビューを果たす[1][3][7][11]。当時は一生懸命演じている声優たちに無知で、「やりたい」と思うほどの魅力もわかってなかった[6]。声で意識していたのはラジオの『JET STREAM』の城達也で、夜中に聴いて「ステキなお声」と思っていた程度だった[6]。声優業界のことも皆無なくらい無知だった[6]。折笠によれば、『セディ』のオーディションにおいて自身の他に高山みなみ林原めぐみが最終選考に残っており、自分が主人公のセディに抜擢されたことについて折笠は、「私が一番素人というか、新鮮だったんだ」と語っている[6][11]

声優の業界に入って最初に感じたのは、「私はなんて下手なんだろう!」だった[11]。それまでは、舞台をしていたことから職業としての声優は「簡単、すぐできるなんて」、「私は結構上手くできるんじゃないか」、「舞台でやっていることが声でやれないわけがない、お茶の子さいさいでできるな」と変な自信はあったという[6][11]

一番難しかったのはマイク前で喋る作業を一切経験していないままオーディションに向かい、主役だったため。マイクとの距離感すらわからなかった[6]。アニメのキャラクターが振り返る時に息を入れたりすることには「なんで振り向くだけでそんな息を入れないといけないんだろう」など言われたことに対していちいち「なぜ?」と身体が全否定していたという[6]

放送が始まって半年くらいは上手くいかず、「ヘタクソだな」と毎回下唇を噛んでいた[6]。オンエアを見て、あまりの下手さに愕然とし、他の声優はとても上手いわけで自然に演じているわけだった[11]。その中で飛びぬけて下手に感じ、声優としての格闘が始まった[11]

大失敗で言えば、当時は泣かせるシーンが多かったが、テストから泣くと、本番でも最初の元気で明るいシーンから鼻声になり、失敗がたくさんあった[6]

下手ではずかしく、最初の1年は毎日「明日この業界やめてもいい!」と声優を辞めてしまいたいくらいだったという[6][11]

職業としての声優の舞台とは違う演技の技術がなかなかできず、プロとして引き受けた以上、1年は辞められず、「意地でもなんとかしなければいけない」と思った[11]。「このまま負けたままで辞めるわけにはいかない」と思い、悔しく何度もオンエアを見て泣いたりしてた[11]。舞台で演じることとの違いと、お金をくれたことの厳しさを改めて感じていた[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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