投資銀行業務は全て「セルサイド(売り手側)」か「バイサイド(買い手側)」に分類される。「セルサイド」には現金または他の有価証券のための有価証券取引(例えば、取引の促進、マーケットメイク)や有価証券の販売促進(例えば、引受け、調査など)が含まれる。「バイサイド」には投資サービスを購入する機関への助言提供が含まれる。プライベート・エクイティ・ファンド、ミューチュアル・ファンド、生命保険会社、ユニット・トラスト、およびヘッジファンドが、最も一般的なバイサイド実体である。
投資銀行は、部署間で情報が飛び交わないよう2つに隔てるチャイニーズウォール(英語版)で、プライベートとパブリックの役割に分割することも可能である。同銀行のプライベート部署では公に開示されていないかもしれない私的なインサイダー情報を扱い[注釈 3]、一方で株式分析などのパブリック部署では公の開示情報を取り扱う。
米国で投資銀行サービスを提供する顧問業は、認可されたブローカーディーラー(いわゆる仲買業者)でなければならず、証券取引委員会(SEC)および金融取引業規制機構(FINRA)の規制の対象となる必要がある[6]。 オランダ東インド会社は、社債および株式を公衆一般に対して発行した最初の会社である。それはまた最初の株式公開企業(株式会社)であり、公式の証券取引所に上場を果たした最初の企業である。また、このオランダ会社が投資銀行業務の現代的実践の基礎を築くことになった[7][8][9]。 19世紀後半、南北戦争が終結すると米国経済は加速度的に発展し、資本家の企業買収による事業の独占が進んだ[3]。1850年にはリーマン・ブラザーズ、1869年にはゴールドマン・サックスが創立されている[3]。この未分化で支配的な投資銀行は1929年の世界恐慌によって注目を浴びた[10][11]。その後、米国政府は企業の利益独占と金融政策・経済政策の失敗が恐慌を招くとして、銀行業務と証券業務の分離(グラス・スティーガル法)や州を越えた銀行業務の制限(マクファーデン法)などの方針を打ち出した[3]。その結果、機関投資家による産業資金の供給や合併の仲介について[11]、より専門性の強い投資銀行という形態の証券会社が必要とされた[3]。第二次世界大戦が終わると米国では独占禁止法による規制が強くなり、業種の異なる企業間での買収や経営統合の動き(コングロマリット)が活発化した[10]。 長年にわたって投資銀行は変化を遂げている。証券発行の引受け、すなわち新規上場(IPO)および流通市場提供(いわゆる増資)、仲買業務、M&Aに焦点を当てた合資会社として始まり、証券リサーチ、自己勘定取引 米国では、1999年に廃止されたグラス・スティーガル法によって商業銀行業務と投資銀行業務が分離された。この廃止により、さらに広範なサービスをも提供する多くの「ユニバーサルバンク
歴史
黎明期
19-20世紀半ば
その後の発展
証券引受けを行う従来のサービスは収益の割合としては減少している。1960年にまで遡ると、メリルリンチの収益の70%は取引手数料から得られていたが「伝統的な投資銀行業務」サービスは5%を数えるほどであった。 しかし、メリルリンチは大規模な仲介ネットワークを持つ比較的「リテール業務[注釈 6]に焦点を絞った」企業だった[15]。 投資銀行業務は、フロントオフィスと呼ばれる顧客窓口部門、ミドルオフィスとされるリスク管理部門、そしてバックオフィスという事務管理部門の活動に分けられる。大手サービスの投資銀行は「セルサイド」と「バイサイド」両方の全ての事業分野を提供しているが、ブティック投資銀行 一般的にフロントオフィスは、収益を生み出す役割として説明される。フロントオフィスには、投資銀行とマーケットという2つの主要分野がある[17]。 コーポレート・ファイナンスは投資銀行の一面であり、顧客が資本市場で資金調達するのを助け、合併および買収(M&A)について助言を与えることを含んでいる。これには、証券発行で投資家に出資してもらうこと、入札者との調整、合併対象と交渉することも含まれる。潜在的なM&A顧客に当銀行を売り込むため、まずは財務情報のピッチブック
組織構造
中核の投資銀行業務
フロントオフィス
投資銀行業務では、M&Aほか幅広い資金調達戦略について組織に助言を行う。
マーケットは「セールスおよびトレーディング(ストラクチャリングを含む)」と「リサーチ」に分けられる。
コーポレート・ファイナンス