中世日本史を専門とする歴史学者の本郷和人は、従来の歴史観による「承元の法難」理解は、『「南無阿弥陀仏を認めるか認めないか」という純粋な宗教的対立がきっかけとなり宗教が元で人が死ぬまでに至った事件として認知されている』出来事であると定義している。
その上で、本郷は「この事件は法然の門弟たちが後鳥羽上皇の寵愛する女官たちと密通したうえ、上皇の留守中に彼女たちが出家してしまったため、後鳥羽上皇の逆鱗に触れたという話で、密通事件さえ起きなければ、宗教がもとで人が死ぬことは無かったと言える」との見解を示している[10]。
脚注
注釈^ 興福寺奏状…通説では興福寺出身で当時笠置寺に居た貞慶によるものとされているが、森新之介