承久の乱
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注釈^承久記』など旧来の説では、これは「官打ち」(身分不相応な位にのぼると不幸になるという考え)などの呪詛調伏の効果であり、後鳥羽上皇は実朝の死を聞いて喜悦したとしている。しかし上横手雅敬は、後鳥羽は武士の臣従を前提とした公武融和路線を進めており、官打ち説は取るに足らぬ俗説とし、幕府と後鳥羽間で、建保6年(1218年)の政子上洛時に、後鳥羽の皇子を実朝の養子とし、将来の将軍として東下させる密約が成立したとした。近年では、後鳥羽上皇は武家政権との対立ではなく、当初は公武融和による政治を図っており、そのために実朝の官位を進め優遇していたとの見方が強い[8]
^ この説の弱点として、実朝暗殺後に後鳥羽上皇が皇族将軍を拒絶したことに説明がつかなくなることが挙げられる。これについて河内祥輔は、現職将軍である実朝が暗殺されたことで、実朝が皇子を猶子などの形で後継指名して将軍の地位を譲り実朝はその後見となる構想が破綻してしまったことと、新将軍に反対する勢力による皇子の暗殺が危惧される状況となったために、後鳥羽上皇が皇子の安全を図るさらなる保障(河内はこれを幕府機構および北条氏以下主要御家人の鎌倉から京都への移転とみる)を求めて幕府側が拒絶したとしている。逆にこの時に、皇族将軍のみならず摂家将軍の擁立も後鳥羽上皇が拒絶すれば、追い込まれるのは主の目処を失ってしまう幕府側である。河内は、後鳥羽上皇が必ずしも倒幕を目指していた訳ではなかったため三寅の鎌倉下向を容認したのであり、承久の乱における最終目的も「鎌倉における現行の幕府体制」の打倒であって、後鳥羽上皇影響下の京都において「幕府」が存続することまでは反対していなかったと説く[9]。また、これらとは別に白根靖大は、後鳥羽上皇は治天としての政治力を背景として家格上昇を望む中級公家層を自己の支配下に置き、さらに後鳥羽院政の元で摂関家に準じた家格上昇を手に入れていた(公家社会的な見方からすれば軍事を家職とする新興公家である)鎌倉将軍家=源氏将軍への影響力強化を図ったとする。だが、後鳥羽上皇が将軍後継問題において、北条氏(公家社会の認識では、鎌倉将軍家の家司筆頭で諸大夫名家級の中級公家に過ぎないとみなされる者)によってその介入を果たせなかったことにより、北条氏の排除を考えるようになったとする。
^百錬抄』承久元年7月19日条を根拠とするが、同じ『百錬抄』の承久2年10月18日条に「今日、最勝四天王院上棟」とあり、通常は事始から上棟まで2?3か月であるため、承久2年(1220年)7月19日に事始があったとすれば無理なく理解でき、最勝四天王院の解体・移築は承久2年の7月から10月にかけてと見るべきだとする指摘もある[10]
^ 慈光寺本『承久記』による。古活字本『承久記』では流鏑馬揃えとする。
^ 伊勢伊賀越前美濃丹波摂津
^ 慈光寺本『承久記』には武田氏、小笠原氏、小山氏、宇都宮氏長沼氏足利氏三浦氏及び北条時房に対して発したとする。他の『承久記』諸本には武田氏、小笠原氏、千葉氏、小山氏、宇都宮氏、三浦氏、葛西氏に対して出されたとする。慈光寺本は成立が一番古い上に『承久記』の中で唯一義時追討院宣の本文を採録されていること、その内容が現存する後鳥羽上皇の他の(義時追討以外の)院宣に類似の形式が見られることから、慈光寺本に記された義時追討の院宣は実際に発給されたものの引き写しであった可能性が高いとする説がある[15]。一方で実物が現存する義時追討の官宣旨に対して、同時代史料で後鳥羽が義時追討の院宣を発給したと記すものがない上に、義時追討の官宣旨と院宣が両方出されたと記す史料は軍記物を含めて一点もなく、慈光寺本『承久記』は院宣にのみ触れて、実在する官宣旨には触れていない(一方で前田家本『承久記』は現存する官宣旨のみを引用している)ことから、慈光寺本『承久記』は実在する官宣旨から院宣を創作したとする説もある[16][17]
^ 『吾妻鏡』に記載される18騎は、泰時、時氏、北条有時(義時四男)、北条実義(義時六男)、尾藤景綱(左近将監)、関実忠(判官代)、平盛綱(兵衛尉)、南条時員、安東藤内(左衛門尉)、伊具盛重、武村次郎(兵衛尉)、佐久間家盛、葛山小次郎、勅使河原則直、横溝資重、安藤左近将監、塩河中務丞、内島忠俊
^ 『吾妻鏡』では、このほか小山朝長結城朝光も大将軍に任じられたとしている[20]。しかし、『承久記』ではこの二人の記載はなく、遠山景朝、諏訪信重、伊具右馬允入道が軍の検見役として加わっている[20]。実際に東山道軍に加わった武士を整理すると、出身地の判明する御家人は、一人を除いて全てが甲斐・信濃の出身者である[21]。『甲府市史』では、このことから、小山朝長・結城朝光が大将軍になっていたとしても軍事指揮官というよりも、軍の監視役のような役割をしていたものと推測している[20]。なお、乱の論功行賞で甲斐源氏の一族は畿内・西国の所領を与えられており、承久の乱を契機に甲斐源氏の一族は西国へ進出している。
^ 越中中世史研究者の久保尚文は、「宮崎求馬氏蔵文書」所収の石黒系図に見える石黒左衛門入道浄覚こそ石黒三郎その人であろうとする。なお、その息子左衛門三郎俊綱は「親に先立って死んだ(先親父死去)」と記されるが、恐らく承久の乱で戦死したのではないかと推測される[23]
^ @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}『吾妻鏡』等で8日に越中の般若野に着いたとされる朝時軍が翌明け方に砺波山に攻め入った(「しきぶのせい未だあけがたの事なるに、うんがのせいをもてをしよせ時をどつとつくりければ」云々)とする『承久軍物語』や夜通しかけて山を越えた(「よをこめて、いがらしとうをさきとして、山をこえけれハ」云々)とする『承久兵乱記』の記載から、砺波山の戦いを6月9日とする説がある[要出典]
^ この戦いで京方の糟屋有久有長仁科盛遠、宮崎定範らが戦死しており、激戦であったことが裏付けられる。
^ ただし義時は『大日本史料』所引の現地指揮官(市河六郎刑部)宛て御教書(『市河文書』所収)で「たしかにやまふみをして、めしとらるへく候、おひおとしたれはとて、うちすてゝなましひにて京へいそきのほる事あるへからす」と、山狩りをして一人残らず召し捕るよう命じており、決して入京を急ぐことがないよう念押しもしている。そのためか、北陸道軍が入京を果たしたのは、慈光寺本『承久記』では6月17日、『百練抄』では20日、『武家年代記』では24日と、いずれにしても戦いの帰趨が決した後となっている。
^ ただし幕府方のこうむった損害も甚大で、この戦闘において桃井義助伊佐為宗熊谷直国津々見忠季庄忠家安保実光、関政綱といった諸将が犠牲となっている。
^ その他京方では、藤原朝俊や平保教らの廷臣、多田基綱佐々木高重、大内惟忠、八田知尚小野成時らの武将が各地で戦死。山田重継佐々木勢多伽丸も戦後処刑されている。また僧尊長は、この後6年に及ぶ潜伏の後、幕府方に発見され自害を図り死去している。
^ ただし、鎌倉幕府と言えども個々の「皇位」継承には関与できても、治天の君が保持する「皇統」継承の決定には関与できなかったという見方もある。松薗斉は、鎌倉幕府は後白河法皇が定めて源義仲の軍事的要求に対しても変更を拒絶した高倉天皇の子孫に皇統を継承させる方針は維持し、非後鳥羽系の有力皇族(恐らくは宣陽門院覲子内親王か)の意見を聴取した上で即位したことのない守貞親王を治天の君に担ぐ構想を立てたのではないかとしている[29]。鎌倉幕府が皇統の制御を行い得なかったことは鎌倉中期以降に治天の君による皇統決定に異議が出された結果として両統迭立が図られ、その度に鎌倉幕府が仲介に入らざるを得なくなったことからも分かる[30]
^ 例えば『新版 日本史辞典』[34]には「後鳥羽上皇が鎌倉幕府をうつためにおこした兵乱」と定義されている。
^ 河内祥輔のように後鳥羽上皇に摂家将軍を廃止する意思があり、それが慈円の『愚管抄』における後鳥羽批判につながっているとする説もある[37]が、河内も承久の乱を倒幕説ではなく親王将軍への交代を目的とする見地に立っているため、倒幕説の観点からの反論ではない。
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