承久の乱
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

^ 越中中世史研究者の久保尚文は、「宮崎求馬氏蔵文書」所収の石黒系図に見える石黒左衛門入道浄覚こそ石黒三郎その人であろうとする。なお、その息子左衛門三郎俊綱は「親に先立って死んだ(先親父死去)」と記されるが、恐らく承久の乱で戦死したのではないかと推測される[23]
^ @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}『吾妻鏡』等で8日に越中の般若野に着いたとされる朝時軍が翌明け方に砺波山に攻め入った(「しきぶのせい未だあけがたの事なるに、うんがのせいをもてをしよせ時をどつとつくりければ」云々)とする『承久軍物語』や夜通しかけて山を越えた(「よをこめて、いがらしとうをさきとして、山をこえけれハ」云々)とする『承久兵乱記』の記載から、砺波山の戦いを6月9日とする説がある[要出典]
^ この戦いで京方の糟屋有久有長仁科盛遠、宮崎定範らが戦死しており、激戦であったことが裏付けられる。
^ ただし義時は『大日本史料』所引の現地指揮官(市河六郎刑部)宛て御教書(『市河文書』所収)で「たしかにやまふみをして、めしとらるへく候、おひおとしたれはとて、うちすてゝなましひにて京へいそきのほる事あるへからす」と、山狩りをして一人残らず召し捕るよう命じており、決して入京を急ぐことがないよう念押しもしている。そのためか、北陸道軍が入京を果たしたのは、慈光寺本『承久記』では6月17日、『百練抄』では20日、『武家年代記』では24日と、いずれにしても戦いの帰趨が決した後となっている。
^ ただし幕府方のこうむった損害も甚大で、この戦闘において桃井義助伊佐為宗熊谷直国津々見忠季庄忠家安保実光、関政綱といった諸将が犠牲となっている。
^ その他京方では、藤原朝俊や平保教らの廷臣、多田基綱佐々木高重、大内惟忠、八田知尚小野成時らの武将が各地で戦死。山田重継佐々木勢多伽丸も戦後処刑されている。また僧尊長は、この後6年に及ぶ潜伏の後、幕府方に発見され自害を図り死去している。
^ ただし、鎌倉幕府と言えども個々の「皇位」継承には関与できても、治天の君が保持する「皇統」継承の決定には関与できなかったという見方もある。松薗斉は、鎌倉幕府は後白河法皇が定めて源義仲の軍事的要求に対しても変更を拒絶した高倉天皇の子孫に皇統を継承させる方針は維持し、非後鳥羽系の有力皇族(恐らくは宣陽門院覲子内親王か)の意見を聴取した上で即位したことのない守貞親王を治天の君に担ぐ構想を立てたのではないかとしている[29]。鎌倉幕府が皇統の制御を行い得なかったことは鎌倉中期以降に治天の君による皇統決定に異議が出された結果として両統迭立が図られ、その度に鎌倉幕府が仲介に入らざるを得なくなったことからも分かる[30]
^ 例えば『新版 日本史辞典』[34]には「後鳥羽上皇が鎌倉幕府をうつためにおこした兵乱」と定義されている。
^ 河内祥輔のように後鳥羽上皇に摂家将軍を廃止する意思があり、それが慈円の『愚管抄』における後鳥羽批判につながっているとする説もある[37]が、河内も承久の乱を倒幕説ではなく親王将軍への交代を目的とする見地に立っているため、倒幕説の観点からの反論ではない。

出典^ 「瀬田の唐橋」歴史的建造物 滋賀県 大津市 公益社団法人 日本観光振興協会
^ a b 松島周一「承久の乱はなぜ起こったか」(峰岸純夫池上裕子編『新視点 日本の歴史4 中世編』(新人物往来社、1993年)
^ “承久の変(じょうきゅうのへん)とは”. 2020年7月6日閲覧。
^ “鎌倉幕府と朝廷の対立 - 歴史まとめ.net”. rekishi-memo.net. 2024年4月19日閲覧。
^ “「清和天皇」は何した人?源氏とのつながりや桓武天皇との関係も 。TRANS.Biz”. biz.trans-suite.jp (2022年8月30日). 2024年4月19日閲覧。
^ 上横手雅敬・元木奏雄・勝山清次『日本の中世8 院政と平氏、鎌倉政権』(中央公論新社、2002年)210頁
^ 鶴岡八幡宮 公式サイト 境内巡り 8.今宮 写真と解説。鎌倉の神社 小事典 かまくら春秋社 吉田茂穂。鶴岡八幡宮「摂末社」も参照のこと。
^ a b 「後鳥羽上皇は倒幕を目指さなかった」承久の乱800年 新解釈や資料発見『読売新聞』朝刊2021年5月13日(文化面)
^ 河内祥輔『日本中世の朝廷・幕府体制』吉川弘文館、2007年、P285-289・301.
^ 坂井孝一『承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱』中公新書、2018年
^ 佐々木紀一「源頼茂謀反の政治的背景について」(『山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告』第31号、2004年)
^ a b 山本みなみ『史伝 北条義時』小学館、2021年
^ 五味文彦「京・鎌倉の王権」(五味文彦編『京・鎌倉の王権』吉川弘文館、2003年)80頁
^ “承久の乱800年 追討令一転「武士の世」促す”. 日本経済新聞 (2021年4月15日). 2022年5月21日閲覧。
^ 長村祥知「承久三年五月十五日付の院宣と官宣旨-後鳥羽院宣と伝奏葉室光親-」(初出:『日本歴史』744号、2010年 所収:『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2015年)ISBN 978-4642029285
^ 西田知広「書評 長村祥知著『中世公武関係と承久の乱』」『日本史研究』651、2016年
^ a b 呉座勇一『頼朝と義時 武家政権の誕生』講談社現代新書、2021年
^ a b 甲府市市史編さん委員会 1991, p. 371.
^ a b 長村祥知「承久の乱にみる政治構造」『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2015年)ISBN 978-4642029285
^ a b c 甲府市市史編さん委員会 1991, p. 373.
^ 甲府市市史編さん委員会 1991, pp. 372?373.
^大日本史料』第4編第16冊65-71頁
^ 久保尚文「巴を支えた石黒氏の末路」『大山の歴史と民俗』26号、2023年、p.7
^ 野口実「承久の乱」(鈴木彰・樋口州男編『後鳥羽院のすべて』新人物往来社、2009年)
^ 野口実「承久の乱」(鈴木彰・樋口州男編『後鳥羽院のすべて』新人物往来社、2009年)
^ 上横手雅敬「鎌倉幕府と公家政権」(『岩波講座 日本歴史5 中世1』岩波書店、1975年)57頁
^ 石井進「院政時代」(歴史学研究会・日本史研究会編『講座日本史』2 東京大学出版会、1970年)220頁
^ 貫達人「鎌倉幕府成立時期論」(『青山史学』創刊号、1970年)
^ 松薗斉『王朝時代の実像15 中世の王家と宮家』(臨川書店、2023年) ISBN 978-4-653-04715-5 P84-99.
^ 松薗斉『王朝時代の実像15 中世の王家と宮家』(臨川書店、2023年) ISBN 978-4-653-04715-5 P54-59.
^ 鈴木かほる『相模三浦一族とその周辺史』(新人物往来社、2007年)
^ 坂井法曄 著「日蓮と鎌倉政権ノート」、佐藤博信 編『中世東国の社会構造 中世東国論』 下、岩田書院、2007。
次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:91 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef