承久の乱
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実朝の急死により、鎌倉殿の政務は実朝の母である北条政子が代行し、執権である弟の北条義時がこれを補佐することとなった。また、新たな京都守護として義時の妻の兄の伊賀光季と、幕府の宿老大江広元の嫡男かつ義時の娘婿で源通親猶子として朝廷と深いつながりのあった大江親広を派遣した。

幕府は新しい鎌倉殿として、後鳥羽上皇の皇子である雅成親王(六条宮)か頼仁親王(冷泉宮)を迎えたいと後鳥羽上皇に申し出る。これに対し、後鳥羽上皇は近臣藤原忠綱を鎌倉に送り、愛妾亀菊の所領である摂津国長江荘、椋橋荘の地頭職の撤廃と院に近い御家人仁科盛遠(西面武士)への処分の撤回を条件として提示した。義時はこれを幕府の根幹を揺るがすとして拒否する。義時は弟の北条時房に1000騎を与えて上洛させ、武力による恫喝を背景に交渉を試みるが、朝廷の態度は強硬で不調に終わる。ただし後鳥羽上皇は、皇子でさえなければ摂関家の子弟であろうと鎌倉殿として下して構わないと渋々ながらも妥協案を示した。このため義時は皇族将軍を諦め、摂関家から将軍を迎えることとし、同年6月に九条道家の子・三寅(後の九条頼経)を鎌倉殿として迎え、執権が中心となって政務を執る執権体制となる。将軍継嗣問題は後鳥羽上皇にも、義時にもしこりが残った。ここで、将軍継嗣問題について語る上で問題とされているのは、実朝が生前から既に自己の後継者として皇族将軍の迎え入れを検討していたとする説である。上横手雅敬が唱えたもので、建保4年(1216年)の9月に実朝が大江広元に語ったとされる「源氏の正統この時に縮まり、子孫はこれを継ぐべからず。しかればあくまで官職を帯し、家名を挙げんと欲す」(『吾妻鏡』)を、然るべき家柄(皇室)から後継を求め、それ(皇族将軍の父)に相応しい官位を求めたとし、後鳥羽上皇もこれを承諾したために実朝を昇進させたという説である[注 2]。また『愚管抄』によれば建保6年(1218年)2月に政子が病がちな実朝の平癒を願って熊野を参詣した際に、京で後鳥羽上皇の乳母の卿二位(藤原兼子)と対面したが、その際に実朝の後継として後鳥羽上皇の皇子を東下させることを政子と卿二位が相談し、卿二位は養育していた頼仁親王を推して、2人の間で約束が交わされたという。

同年7月、大内守護の源頼茂源頼政の孫)が後鳥羽上皇の命によって在京武士に攻められ、内裏の仁寿殿に籠って自害するという事件が起きた。理由は『吾妻鏡』では頼茂が後鳥羽上皇の意に背いたためとし、『愚管抄』『保暦間記』などによると頼茂が将軍職に就くことを企てたため、在京武士たちがそれを後鳥羽に訴え、後鳥羽は頼茂を召喚したが応じなかったため追討の院宣が発せられたとされている。幕府の問題のために後鳥羽上皇が朝廷の兵力を動かすのは不自然で、頼茂が後鳥羽上皇による鎌倉調伏の加持祈祷を行っていた動きを知ったためとする説もあり、そのためか事件の直後に後鳥羽上皇が祈願に使っていた最勝四天王院が取り壊されている[注 3]。また『愚管抄』には頼茂と藤原忠綱の間に怪しい共謀があったとし、忠綱は実朝暗殺後に九条基家を次期将軍にしようと画策したため、頼茂誅殺の翌8月に後鳥羽上皇によって解官・所領没収されており、その赦免を願っていたのが卿二位だったと記されている。そのことから、卿二位の推す頼仁親王の将軍就任が後鳥羽上皇によって拒絶され、卿二位の政敵西園寺公経の外孫三寅が有力な将軍候補となったため、卿二位が何らかの妨害を企み発覚したのが頼茂謀反の真相で、後鳥羽上皇は在京武士の訴えで頼茂捕縛を試みたが召喚に応じず討伐に至ったとして、承久の乱に至る公武対立の図式ではなく後鳥羽院政下における権力闘争の一コマとして位置付ける説もある[11][12]

頼茂が自害する際に火を放ったことで大内裏が焼失するという事件が発生し、大内裏焼失をうけて後鳥羽上皇は幕府を含む各方面に再建のための賦課を求めた。しかし公家・寺社・武士のいずれも非協力的であり、後鳥羽上皇は幕府に対する不満を募らせた。朝廷と幕府の緊張は次第に高まり、承久2年(1220年)に焼失した宮城の造営を行うなかで後鳥羽上皇は挙兵の態度を固めたとされるが、土御門上皇はこれに反対し、摂政近衛家実やその父基通をはじめ多くの公卿たちも反対または消極的であった。順徳天皇は討幕に積極的で、承久3年(1221年)4月20日に彗星の出現を理由に懐成親王(仲恭天皇)に譲位[13]、自由な立場になって協力する。また、近衛家実が退けられて、新帝外戚の九条道家が摂政となった。さらに、寺社に密かに命じて義時調伏の加持祈祷が行われた。討幕の流説が流れ、朝廷と幕府の対決は不可避の情勢となった。
上皇挙兵後鳥羽上皇

承久3年(1221年)4月下旬、後鳥羽上皇城南寺の仏事守護[注 4]を口実に諸国の兵を集め[14]、28日には北面・西面武士や近国の武士、大番役の在京の武士1000余騎が後鳥羽の院御所である高陽院に集まった。その中には有力御家人の尾張守護小野盛綱近江守護佐々木広綱検非違使判官三浦胤義も含まれていた。5月14日、幕府の出先機関である京都守護大江親広(大江広元の子)は京方に加わり、同じく京都守護の伊賀光季は招聘を拒んだ。同時に親幕派の大納言西園寺公経実氏父子は幽閉された。翌15日に京方の胤義や藤原秀康近畿やその近国6か国[注 5]守護大内惟信ら800余騎が光季邸を襲撃、光季はわずかな兵で奮戦して討死したが、下人を落ち延びさせ変事を鎌倉に知らせた。

同日に後鳥羽上皇は「五畿七道」の御家人、守護、地頭ら不特定の人々を対象に義時追討の官宣旨を発した。また三浦氏小山氏武田氏などの有力御家人に対して、義時追討の院宣も発している[注 6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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