「扇」という漢字は本来軽い扉のことを意味し、そこから転じてうちわ(団扇)のことをいうようになった。うちわは紀元前の中国で用いられたという記録がある。また古代エジプトの壁画にも、王の脇に巨大な羽根うちわを掲げた従者が侍っている図があり[4]、日本では利田遺跡(佐賀県)において、うちわの柄が出土した例がある[5]。このようにうちわは文明発祥時から存在する。団扇(うちわ)は中国文明において発明されたと考えられており、隋唐時代に東アジアの各地に伝えられた[6]。日本において「扇」を記載した文献に『万葉集』や『続日本紀』があるが、これらの「扇」は中国式の団扇のことと推定されている[6]。
折り畳み式の扇の起源「彩絵檜扇」 平安時代後期、厳島神社蔵。扇を形作る檜の薄板全てに胡粉、さらに雲母を塗り、金銀の箔を散らして絵を描く。児童および婦人用の檜扇である。
一方、折り畳み式の扇の起源やどこで最初に発明されたかについて、日本説、高麗説、中国説など長い間議論されてきた[6]。 日本では平安時代の中頃までに、5本または6本の細い骨に紙を貼った蝙蝠扇(かはほりあふぎ)が夏の扇として現れる。これが現代に見られる扇の原型であるが、このころの紙貼りの扇は扇面の裏側に骨が露出する形式だった(室町時代以降、扇骨の両面に紙を貼る形式が広まった)。平安時代には扇はあおぐという役割だけでなく、儀礼や贈答、コミュニケーションの道具としても用いられた。具体的には和歌を書いて贈ったり、花を載せて贈ったりしたことが、『源氏物語』など、多くの文学作品や歴史書に記されている。このように扇は涼をとったり、もてあそび物にされたりする一方で、時代が下るにつれ儀礼の道具としても重んじられた。公家や武家また一般庶民の別なく、日常や冠婚葬祭での持ち物の一つとされた。
日本説
日本における折り畳み式の扇子は檜扇と蝙蝠扇に大別される[6]。伝説では神功皇后が蝙蝠(コウモリ)の羽にならったという逸話がある[6]。遺跡では長屋王邸から出土した最古とされる檜扇が年号を記した木簡とともに出土しており、奈良時代には檜扇が出現していたとされる[6]。また『倭名類聚抄』は扇(和名阿布岐)と団扇(和名宇知波)を区別しており、平安中期には中国式の団扇と折畳式の扇の区別が存在した[6]。最初に現れた扇は30cmほどの長さに2?3cm幅の薄い檜の板を重ねて作る檜扇と呼ばれるもので、これは奈良時代の実例が発掘されている[7]。平城京跡から発掘された檜扇の形状、寸法、墨書などから木簡との関連性を指摘し、折畳式の扇は中国の木簡や簡牘をもとに日本で創案されたとする説もある[6]。中国の文献では『宋史』巻491の「日本伝」や『国朝典故巻之一百三』の「日本国考略」に日本からの特産品として金銀などとともに日本の扇が並べられている[6]。このうち『宋史』巻491の「日本伝」には北宋の端拱元年(988年)、日本の僧「然の弟子・喜因が中国大陸に渡った際に、檜扇二十枚と蝙蝠扇二枚を献上したという記録がある[6]。また、宋江少虞『皇朝類苑』や蘇轍『楊主簿日本扇』などに日本からもたらされた扇に関する記述がある[6]。
高麗説
中国の辞書『辞海』などがとる説。しかし、北宋の郭若虚『画見見聞志』巻6「高麗国」に「本出于倭国也」という記述があることなどから、日本の扇が高麗に伝わりそれが中国に流入したものという指摘がある[6]。
中国説
開閉のできる「扇」を中国発祥とする話もある[8]。その根拠に『南斉書・劉祥伝』にある「腰扇」の記述や明代の方以智『物理小識』巻8にある「器用・宮扇」の記述があるが、これらの文献の「腰扇」や「器用・宮扇」から折り畳みの扇が存在したと証明するのは妥当でないという指摘がある[6]。『両山墨談』(嘉靖18年〈1539年〉跋)には「宋元以前、中国未有摺扇之製」(宋、元の時代以前に、中国には「摺扇」〈折りたたみのできる扇〉はなかった)とあり、また『名物六帖』(伊藤東涯編著)は「扇」について、「今所謂団扇也、摺扇称扇、則亦甚晩、始于明之中葉」(今いうところの団扇のことである。「摺扇」を指して「扇」と称することはずいぶん後になってからのことであり、これは明の時代の半ばに始まったことである)としている[9]。
蝙蝠扇