所得倍増計画
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所得倍増計画(しょとくばいぞうけいかく)は、岸信介内閣が手にかけ[1]1960年に岸内閣の通商産業大臣で計画の推進役であった池田勇人が首相就任後に政策を本格化させた長期経済計画[1]池田内閣で閣議決定された際の名称は国民所得倍増計画(こくみんしょとくばいぞうけいかく)という[2]。この計画では、翌1961年4月期からの10年間に実質国民総生産を26兆円にまで倍増させることを目標に掲げたが、その後日本経済は計画以上の成長に至った[2]。立案は経済学者の下村治
概要

日本の経済史においては、1956年4月から1973年11月頃までを高度経済成長期と呼び[3]、この間、日本は年平均10%という驚異的な経済成長を遂げた[4]。中でも特に、1960年に首相に就任した池田勇人が打ち出した「国民所得倍増計画」によって、成長体制が整備された[5][6][7]

池田は「国民所得倍増計画」を打ち出し[8][9][10][11][12]国民総生産を10年以内に26兆円(1958年度価格)に倍増させて、国民の生活水準西ヨーロッパ先進国並みに到達させるという経済成長目標を設定し、内政と外交を結びつけることで、完全雇用の達成と福祉国家の実現、国民各層間の所得分布の是正をはかることを目指した[13][14][15][16][17][18][19]。さらに租税社会保障公共事業を三本柱として経済成長を推進させた[13][20][21]

また悪い表現でいえば"仕事中毒の出発点でもある[22][23][24]

日本の第二次世界大戦後の長期経済計画としては、1957年の岸信介内閣による「新長期経済計画」に代わるものであり、1960年12月27日に池田内閣により閣議決定された[2]。池田内閣による所得倍増計画のもとで日本における実質国民総生産は約4年(1964年8月期)、国民一人当り実質国民所得は約7年(1967年10月期)で倍増した[2]。一方で高度成長によるひずみの是正や社会資本整備が求められ、その後、佐藤栄作内閣で「中期経済計画」(1965年)および「経済社会発展計画」(1967)が策定された[2]

一方、これに異を唱えた福田赳夫1962年に反池田集団「党風刷新連盟」を結成した。現在の清和政策研究会の前身である[25]
実施に至る経緯

「国民所得倍増計画」が、池田内閣で世に出るまでは複雑な経緯を辿っている。そもそもこの"高度経済成長政策"の理論的骨格は、宏池会が結成された1957年頃から、池田の指示を受けた下村治たち池田のブレーンが、ケインズ経済学を初めて導入して、日本経済と国民生活がこれからの10年間にどこまで豊かになれるかという潜在成長力の推計を大蔵省内の一室で続け、池田とのディスカッションを経て練り上げたものが大元である[26][27][28][29][30][31][32][33]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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