所得倍増計画
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広島からの帰途、大阪に立ち寄り、100人余りの関西財界人の前で再び「月給倍増論」を唱えたが「春闘を控えて、いたずらに労働者側に甘い期待を抱かせることになる」「月給を二倍にすると、必ずインフレになる。無理に生産力を伸ばせば、輸入が激増し国際収支が大幅赤字になる」といった反対論が噴出した[43][44]。池田は誤解を解く必要があると思い、帰郷後3月9日の『日本経済新聞』朝刊「経済時評」の欄に「私の月給倍増論」と題する小論を発表した[35]。内容は「いま月給をすぐ二倍に引上げるというのではなく、国民の努力と政策のよろしきをえれば生産が向上する。せっかく力が充実し、国民経済が成長しようとしているのに、これを無理に抑えている。いま日本でインフレの心配は少しもない」というようなものだった[35][45][46]。この議論は大きな反響を呼び[47][48]、「国民総生産」という経済用語が、初めて政治家によってマスメディアに持ち出されたといわれる[46]

一方で、自由民主党幹事長だった福田赳夫が「岸総理に『所得倍増』をいわせるんだ」と言っていたという[41]経済企画庁大来佐武郎が、福田が幹事長だったときに説明に言ったら福田が「何か二倍になるものはないか」と言ったと証言しており、福田の幹事長就任は1959年1月のため、福田は池田の『所得倍増』のアイデアを盗み、池田-下村ラインの経済政策を岸-福田ラインが内閣の方針として取り込もうとしたものと考えられる[36][42][49][48][50][51]。池田が1959年6月の参院選でも党内野党として「月給倍増論」を活発に繰り返すに及んで[38]、岸は池田を強力な反主流派に留めておくべきでないと判断し、第2次岸内閣 (改造)の際に「所得倍増計画」の実現を任せると約束して池田を経済産業大臣として入閣させた[38][52]

岸内閣での入閣後

池田は、早速組閣直後の閣議で、首相談話原案中に書かれた「10年で所得を倍増させる」という文章から「10年」という文字を削除させ、「10年」以内に所得倍増が可能であることを強調し、内閣を主導した[29][53]。池田は入閣によって次期政権の機会を捉えようとし、政府側の経済政策を積極論へ転換させることに力を注ぎ、ブレーンたちと「所得倍増計画」の原型を作っていく[48][52]。岸は池田の政策構想を福田に牽制させる体制を作ろうとし、福田を蔵相に据える構想を抱いたが、弟の佐藤栄作が蔵相の留任に固執したため福田は農相に就任した[54]。池田はこの通産大臣時代に「所得倍増計画」と同じような積極財政論を公表していたが[38]、岸内閣は翌年の安保闘争による総辞職に至るまでこの問題にかかりきりで新政策を展開する余裕がなかった[38][52][55]、1959年10月、自民党内に設置された経済調査会が出した報告に池田や佐藤が「具体的データが不足している」などとその内容にクレームを付け、白紙に戻された[47][56][57][58]。党の基本構想を葬り去った池田の背後には「下村プラン」が控えており、既に骨格を作り上げていたため、党の基本構想のデータの欠陥を指摘し得たのである[57]。やむなく岸内閣は11月26日、あらためて経済審議会(石川一郎会長)に諮問したが、この年9月にあった伊勢湾台風の被害に対応するため、1960年度の予算編成は、国土保全政策に重点的な支出配分を行うものになり、「所得倍増計画」に重点を置くことができなかった[57]

大来佐武郎はこの11月の答申から12月の閣議決定の間も池田が狙っていた高度成長と違うと相当揉めたと話している[59]


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