朝鮮半島では律令が頒布された三国時代に施行されたようだ。日本の正倉院で発見された新羅民政文書[4]は、その良い例である。
高麗時代には家や家族を単位にして、家籍に属する家族との身分関係などを記録した公文書として戸籍という名称が初めて現れた。
高麗時代には民の身分に応じて制度の内容も異なっていたようだ。すなわち、庶民は州郡県の地方官が毎年戸口を調査して戸部に報告しており、両班(貴族)は、3年ごとに戸籍2件を作成して1つは官庁に置いて、1つは自己家に置いた。内容は、戸主・世系、同居する子、兄弟、甥の義理など族派奴婢を記録した。 日本統治下では、身分の記載は削除された。 大韓民国(韓国)でも戸籍は継承され、徴兵制度の運用もあり管理が厳しかった。「戸主制」に基づく制度となっていた。しかし2005年2月3日に、憲法裁判所が韓国民法778条「一家の系統を承継する者、分家した者またはその他の事由により一家を創立したか復興した者は戸主となる」、781条1項「子は(中略)父の家に入籍する」、826条3項「妻は夫の家に入籍する」の三条項について、父系血統主義に立脚した正当な理由なき性差別の制度であるとして下した違憲判決[注 1]に伴い、 翌月2005年3月2日にこれら三条項を撤廃する民法改正案が韓国国会で可決され、2007年大晦日限りで戸籍制度が撤廃された[5]。その代わりに、2008年元日に家族関係の登録等に関する法律
日本統治時代
韓国
一方、解放後の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では戸籍に相当するものはなくなり、居住地の朝鮮労働党組織にて日本でいう住民登録が行われ管理されている。「公民登録法」により17歳以上の朝鮮公民(朝鮮民主主義人民共和国国籍を持ち北朝鮮国内に居住する者)は公民証(首都の平壌市民は1997年以後「平壌市民証」に切替)が発給され、本人確認が行われる。
台湾
日本統治下
日本と同様の戸籍制度で運用されていた。
中華民国統治下
ID制度(「国民身分証」に記載されている。国民総背番号制)と平行して存在しているが、一般的にIDの方が多用される。中国国民党の一党独裁時代は、軍政時代の韓国同様、戸籍は警察が管理していた。
日本
古代
古代日本の戸籍制度
大和朝廷では、直轄領の一部で行われた。
670年
大化の改新(645年)によって朝廷の支配体制が強化され、各地の豪族が作っていた戸籍に代わって、全国的な「庚午年籍(こうごねんじゃく)」という戸籍(へのふみた)が作られ、6年ごとに更新された。
中世・近世
織豊政権
豊臣秀吉による太閤検地が行なわれた。
徳川時代
徳川幕府や寺社の作成した人別帳や宗門改帳や過去帳が、人民の登録簿であった。これらは現代でも家系図作成などの際に参考にされることが多い。1825年(文政8年)に長州藩(現:山口県)で戸籍法施行。この制度が明治維新後に明治政府に受け継がれ、近代戸籍制度が創設された[6]。
明治維新から第二次世界大戦まで
1868年(慶応4年)
長州藩の旧来制度を参考に京都府で戸籍仕法が行われる。
1869年(明治2年)
民部官に庶務司戸籍地図掛(国土地理院の前身の一つ)を創設。
1870年(明治3年)
戸籍地図掛が民部省地理司へと拡充。
1871年(明治4年)
民部省が廃止され、大蔵省租税寮へ管轄が移る。
1872年(明治5年)(明治5年式戸籍)
「戸籍法」明治4年4月4日太政官布告第170号・明治5年2月1日施行前年制定の戸籍法に基づいて、日本で初めての本格的な戸籍制度が開始された。この年の干支が壬申(みずのえさる)であることから、この制度によってできた戸籍を壬申戸籍(じんしんこせき)と呼ぶ。戸籍の編成単位は「戸」、本籍は住所地であり、身分とともに住所の登録を行ったことから、現在の住民票の役割も担っていた。「新平民」や「元えた」などの同和関係の旧身分(穢多、非人)や、病歴、犯罪歴などの記載があることから、現在は各地方法務局の倉庫で一般の目に触れないように厳重に保管されている。ただし、法務省の公式発表では壬申戸籍は行政文書非該当とし一切開示しておらず、廃棄したことになっている。
1874年(明治7年)
太政官達「大蔵省中戸籍、土木、駅逓ノ三寮及租税寮中地理、勧農ノ事務ヲ内務省ニ交割セシム」[1]