永禄9年(1566年)、道盛に男子が生まれた。後に「鬼九郎」の異名を得ることになる戸沢盛安である。
盛安は小野寺氏や安東氏を破って勢力を拡大し、仙北三郡の完全平定に成功した。これが戸沢氏の勢力全盛期となった。中央の動静にも絶えず注目しており、豊臣秀吉の小田原征伐の際には主従僅か10人にて、しかし東北地方の戦国大名の中ではいち早く参陣して秀吉の賞賛を受け、戸沢氏は所領を安堵された。しかし盛安は参陣中の小田原にて病死した。 盛安の死後、子の九郎五郎が4歳だったため、弟の戸沢光盛が家督を継いだ。奥州仕置の後、戸沢氏の支配地域は盛安の死と惣無事令の問題もあり、北浦郡4万5千石のみ安堵され、残りの地域に関しては太閤蔵入地
安土桃山時代
豊臣政権期
光盛の家督相続の際、盛安の兄の戸沢盛重による謀反騒ぎが起きたとされるが、家中動揺することなく、光盛を盛りたてた。光盛は朝鮮出兵の途上、播磨国姫路城で病死した。 光盛の死後、盛安の子の戸沢政盛が家督を相続した。秀吉の死後、政盛は徳川氏重臣の鳥居元忠の娘と縁戚を結び、徳川方へ急速に接近していった。 関ヶ原の戦いでは東軍に属し、最上氏と共に上杉氏と戦った。しかし上杉討伐で秋田氏の勢力が増大することを恐れ、消極策に終始した。戦後、この行動が咎められて、常陸国松岡へ減転封された。 松岡藩への転封後も政盛は、正室真室御前の兄弟の鳥居忠政の次男を婿養子に迎えるなど(ただし相続前に死去)、徳川氏への接近を積極的に進めていった。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では小田原城の守備を、翌20年の大坂夏の陣では江戸城の留守居役を命じられたため、本戦には参加していない。 鳥居氏との縁戚により、本来江戸幕府内での扱いは外様大名であるはずの戸沢氏は譜代大名とされた(願譜代)。元和8年(1622年)、最上氏の改易を受けて鳥居氏が最上氏の旧領出羽国山形の藩主となった。戸沢氏は鳥居氏の一族として、常陸国松岡よりは旧領角館にはるかに近い出羽国新庄へ加増転封された。 以後は新庄藩6万石(後7万石)の大名として明治維新まで続いた。江戸期の著名な家臣としては、18世紀における日本の算学者・安島直円がいる。最後の藩主正実 最後の藩主正実は、明治2年(1869年)6月19日に版籍奉還で新庄藩知事に任じられたのを経て、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県まで藩知事を務めた[5]。 明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると戸沢家も大名家として華族に列した[7][8]。明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同月8日に旧小藩知事[注釈 1]として正実が子爵に列せられた[2]。 その孫正己は貴族院の子爵議員に当選して務めた。彼の代に戸沢子爵家の邸宅は東京市小石川区丸山町にあった[10]。 桓武天皇
関ヶ原の戦い
江戸時代
明治以降
系譜
葛原親王
高見王
高望王
平 国香
貞盛
維衡
正度
正衡
正盛
忠正
通正
1戸沢 衡盛住滴石
2兼盛飛騨守
3親盛飛騨守盛正住小館兼任住小館
4克盛
5勝盛飛騨守久盛
6玄盛飛騨守
7英盛飛騨守長盛住小館
8氏盛飛騨守
9伊盛上総介行盛住横田城
10豊盛治部少輔泰盛飛騨守
11家盛遷角館城
12久盛飛騨守盛芳住大曲城
13寿盛
14征盛飛騨守楢岡 長峰頼盛住門屋城
15秀盛忠盛政重安房守宗盛宮内大輔盛定周防守盛実左京亮盛直
16道盛盛門盛行
17盛重深盛18盛安19光盛盛吉左兵衛尉
盛綱盛常20政盛
新庄藩主家盛忠
鳥居 忠政
戸沢 定盛 女乗盛能登守21正誠
正武22正庸[※ 1]
正成[※ 2]正賀23正勝24正ェ庸祝正備正愛
25正産26正良27正親
28正胤
正賜29正令正啓正紀正彬楢岡 信之助