軍隊内部では、奉読が習慣になっていたといわれ、野砲兵第22連隊では起床後の奉読が習慣になっていた[14]。同様の体験談がある一方で、軍人勅諭は新兵に対し丸暗記を強制させるほど重要性が高い物であったが、戦陣訓にはその様な強制が行われなかったという指摘もある[15]。司馬遼太郎は関東軍で教育を受け、現役兵のみの連隊(久留米の戦車第1連隊)に属してほんの一時期初年兵教育もさせられたが、戦陣訓が教材に使われている現場を見たことがない、幹部候補生試験などでも軍人勅諭の暗記はテストの対象になるが戦陣訓はそういう材料になっていなかったように思える、と書いている[16]。
一般国民に対しては用紙統制
が行われているなか、1941年だけでも少なくとも『戦陣訓述義』『戦陣訓話』など12種の解説書、『たましひをきたへる少国民の戦陣訓』『少年愛国戦陣訓物語』など5種の教材が出版許可を受けて出版されており、以後も敗戦まで種々のものが出た[17]。このほかに「戦陣訓カルタ」[18]なども作られた。また、学校での教育にとりいれられ、暗記が推奨された。そのため、現在でも「暗誦できる」人もいる[19]。大阪府の枚方遊園では「戦陣訓の人形芸術化」として菊人形の展示も行われた。戦陣訓は歌謡化もなされ、ビクター、ポリドール、キングの各社競作で作られ、1941年4月に発売された。
『戦陣訓の歌』(ビクターレコード):梅木三郎作詞・須摩洋朔作曲・徳山l歌。
『戦陣訓の歌』(ポリドールレコード):藤田まさと作詞・江口夜詩作曲・奥田良三、関種子、ヴォーカルフォア合唱団歌。
『戦陣訓の歌』(キングレコード):吉川英治作詞・永田絃次郎歌。
新聞記者出身の梅木三郎が詞を付け、軍楽隊の須摩洋朔が曲をつけ徳山lが歌ったビクター盤が一番広く普及し歌われた。1972年、フィリピンルバング島から発見された小野田寛郎元陸軍少尉がは記者会見で、ビクター盤の『戦陣訓の歌』の3番にある「一髪土に残さずも…」を引用して発言した。なお現在でも陸上自衛隊中央音楽隊は行進曲『戦陣訓』[20]を演奏する。
また、戦国時代に「生きて虜囚の辱を受けず」を実践した人物をモデルとした映画法による国策映画『鳥居強右衛門』(日活1942年)で「生きて虜囚の辱を受けず」の一節が台詞として述べられた。 太平洋戦争での日本人捕虜第1号となった酒巻和男海軍少尉(海軍兵学校卒)は 1941年12月8日真珠湾攻撃で、特殊潜航艇「甲標的」に艇長として搭乗した。しかし、機器の故障や米軍の攻撃などで座礁した。そこで自爆を試み、海に飛び込んだが、意識を失った状態で米兵に捕らえられたため“生きて虜囚の辱を受けた“ことになった。大本営は傍受したVOAの報道から捕虜第1号の存在を初めて知り、同時に出撃した10名の写真から酒巻だけを削除し、「九軍神」として発表した(大本営発表)。酒巻の家族は人々から「非国民」と非難された[21]。そして、それ以後捕虜になった者たちは親族が「非国民」とされるのを恐れ、偽名を申告し、ジュネーヴ条約に基づいて家族に手紙を出すようなことも控えることが多かった [22]。結果、その者達は“未帰還”(戦死または作戦行動中行方不明)となった。 日本軍は兵士が捕虜になることを想定せず、捕虜となった場合にどうふるまうべきかという教育も一般兵士に施さなかった。真珠湾攻撃の際に捕えられた酒巻は海軍兵学校出の将校であったため機密を漏らすことはなかったが、一般兵士はいったん敵軍に捕えられてしまうとどうふるまうべきかを知らなかった。1942年、アメリカは日系二世兵士を中心とするATIS(連合国軍翻訳通訳部 『戦陣訓』は複数の戦場において、玉砕命令文中に引用された。「玉砕」とは『北斉書』元景安伝の「大丈夫寧可玉砕、何能瓦全」(立派な男子は潔く死ぬべきであり、瓦として無事に生き延びるより砕けても玉のほうがよい)による表現である。第二次世界大戦の中で最初に使われたのは、1943年5月29日のアッツ島の日本軍守備隊約2600名の全滅の発表時であった。1943年5月29日、北海守備隊 昭和陸軍の戦陣訓への評価は分かれている。一部では、太平洋戦争中で発生したとされる日本軍の所謂バンザイ突撃と玉砕(=全滅)、民間人の自決を推奨し、降伏を禁止させる原因であると理解される一方、当時の将兵のなかには戦陣訓を批判したり無視しているものもあったといわれる(下記)が、いずれにせよ軍部の暴走と腐敗は時局と戦局を悪化させ、大日本帝国は敗戦により滅亡した。 東條英機と対立していた石原莞爾陸軍中将(『戦陣訓』発令の同年8月東條により罷免され予備役)は、1941年9月には著書『最終戦争論・戦争史大観』で戦陣訓について「?介石抵抗の根抵は、一部日本人の非道義に依り支那大衆の敵愾心を煽った点にある。『派遣軍将兵に告ぐ』『戦陣訓』の重大意義もここにありと信ずる。」と述べ[27]、さらに「軍人勅諭を読むだけで充分」と部下には一切読ませなかったという説がある。また、同1941年(昭和16年)に菊池寛は「これは、おそらく軍人に賜りし勅諭の釈義として、またその施行細則として、発表されたものであろう。」と述べている[28]。 戦陣訓はあくまで東條陸軍大臣の訓示であり、法的拘束力が曖昧だったため、海軍はこれを無視していたといわれる[29]。海軍のパイロットであった坂井三郎は戦陣訓は「強制されたものではない」と述べているが、他方で「(支給品である)落下傘をもって行ったけれど、座布団代わりに敷いていただけで、バンドは(各パイロットが自発的に)もって行かなかった」と証言している。 昭和18年、中国戦線において戦陣訓を受け取った伊藤桂一陸軍上等兵(のち戦記作家)によれば、一読したあと「腹が立ったので、これをこなごなに破り、足で踏みつけた。いうも愚かな督戦文書としか受けとれなかったからである。戦陣訓は、きわめて内容空疎、概念的で、しかも悪文である。自分は高みの見物をしていて、戦っている者をより以上戦わせてやろうとする意識だけが根幹にあり、それまで十年、あるいはそれ以上、辛酸と出血を重ねてきた兵隊への正しい評価も同情も片末もない。
捕虜と「非国民」
軍機漏洩
玉砕
解釈と評価