戦闘機
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これを端緒に、戦爆連合、戦闘機の単独進出など積極的に使用する航空戦術の型が確立されていった[33]

1938年ドイツ空軍ヴェルナー・メルダーススペイン内戦で、それまで3機編隊が主流となっていた戦闘機の最小編隊構成を、2機1組で編隊を組み、長機が攻撃・追撃に集中し、もう1機の僚機が上空ないし長機の後方で援護・哨戒を行う「ロッテ戦術」を考案した。さらに2機プラス2機の4機で編隊を組む「シュヴァルム戦法」にまで発展させた。これらはドイツ空軍だけの採用に留まらず、後に世界的に利用される編隊の形として定着していった[34]

第二次世界大戦初期までは格闘戦が主流であり、高い格闘性能を持つ機体が空戦で優勢だったが、アメリカ軍のように組織的に格闘戦を避けて一撃離脱を行うように指導する国も現れ、零戦対F4F、スピットファイア対Bf 109の対戦のように格闘戦と一撃離脱のどちらが有利な空戦に持ち込むかも勝敗に関係してきた[35]

日本海軍は太平洋戦争で敗色が濃くなると戦闘機で体当たり攻撃を行う特攻戦法を主張する者が現れた。軍令部第2部長黒島亀人は1943年8月6日戦闘機による衝突撃戦法を提案、1944年4月体当たり戦闘機の開発を提案している[36]。1944年10月20日大西瀧治郎中将によって編成された最初の神風特別攻撃隊の機体として零式艦上戦闘機が使用されて以降戦闘機による特攻が終戦まで行われた。
ジェット戦闘機への移行

第二次世界大戦は、航空機主体の戦いとなり、開戦当初1,000馬力未満だったエンジン出力は大戦後半には2,000 - 2,500馬力にも達した。その急速な技術進歩の過程で、Me262などのジェット戦闘機が誕生した。プロペラは その先端速度が音速(1,200km/時:海面)に近づくと空気圧縮の発生により推進効率が悪くなる。その結果プロペラ機の最高速度は800km/時あたりで頭打ちとなってしまう。レシプロ戦闘機は第二次大戦終了からさほど経たないうちにその速度域に達し、主力戦闘機としての使命が終了した。以後ジェット戦闘機の時代に突入する。

1930年代頃から、レシプロエンジンに代わる新しい推進装置として、ドイツやイギリスなどでジェットエンジンの研究が進められていた。世界で初めて飛行したジェットエンジン機は、1939年に初飛行したハインケルHe178である。第二次大戦後期にかけて各国でP-80 シューティングスター(アメリカ)、Me 262(ドイツ)、ミーティア(イギリス)などのジェット戦闘機が登場したが、本格的な実用化はドイツのMe262だけであった。初期のジェット機はレシプロ戦闘機の設計の延長上にあるものが多く、エンジンの装備位置は、第二次大戦中のMe 262や直線翼機では主翼下に吊り下げたポッド式や主翼に埋め込んだ機体が多かった。MiG-15「第1世代ジェット戦闘機」も参照

ジェット戦闘機が本格的に実戦投入されたのは、朝鮮戦争からである。その頃のアメリカ空軍ではF4Uコルセアなど第二次世界大戦末期に採用されたレシプロ機が多く存在したが、格闘性能ではMiG-15と同等に渡り合うなどジェット戦闘機とレシプロ機の差が交錯する時期でもあった。

ソ連の支援を受けた中国人民志願軍はいち早く後退翼のMiG-15を投入した。当時国連軍の主力となったのはF-80 シューティングスターグロスター ミーティアなどの直線翼戦闘機であり、設計思想ではMiG-15の方が先進的であった。その後、これに対抗してアメリカ軍を中心とする連合軍も後退翼のF-86 セイバーなどを投入した。性能的にはMiG-15とF-86は一長一短であり、上昇力や格闘性能ではMiG-15が勝ったが、レーダーや照準器などの儀装面ではF-86の方が優秀であった。結果としては米空軍パイロットの技量の高さもあって、この後退翼戦闘機同士の戦いではアメリカの圧勝であった。

音速に達する前のジェット戦闘機は「第1世代」と区別される。
超音速戦闘機
第2世代ジェット戦闘機
第2世代ジェット戦闘機」も参照F-104G

1940年代まで 有人飛行機で音速を超えて操縦することが可能かどうかは、全く未知の世界であった。第二次大戦の直後から、アメリカはこの問題を実験できる機体の研究を続けていた。この目的のために製作されたベルXS-1(ロケットエンジンを装備:後にX-1に名称変更)は1947年に有名なチャック・イェーガーの操縦で音速を突破し、超音速でも機体の操縦が可能であることを証明した。このときはB-29の腹下にぶら下げられて離陸し、高度6,100mで母機から切り離されて発進した。一旦 有人機で音速を超えられることがわかれば、後はエンジンの推力と空気力学の問題である。ジェットエンジンは次々に改良され、推力が大きくなった。機体の形状ではエリアルール(面積法則)なる理論が提案され、F-102デルタダガーの音速突破に貢献した。これは、飛行機の断面積変化が少ないように設計すれば高速での抵抗が少ないという理論で、機体に応用した場合主翼取り付け部分の胴体がくびれて細くなる。一方主翼は、後退翼よりもより高速飛行に適したデルタ翼機が多数登場した。こうして音の壁を突破し、超音速飛行が可能となった戦闘機は「第2世代」のジェット戦闘機に分類される。また、この時期にはAIM-9サイドワインダーなどの空対空ミサイルが登場した。
第3世代ジェット戦闘機
F-5N(手前)とF-4S(奥)「第3世代ジェット戦闘機」も参照

ミサイルの発達により、空戦は遠距離からのミサイルの撃ち合いで終始するというミサイル万能論が広がった。高速でより多くのミサイルを搭載可能な戦闘機が最強の戦闘機とされ、近接格闘戦で必要な機動性は軽視されるようになった。そのため少なくない戦闘機が機関砲装備を廃止した。戦闘機の高速化が進み、超高速戦略機の迎撃用に開発されたMiG-25 "フォックスバット"は最高速度が非常に速く、3,000 km/h (およそマッハ 2.83 相当)での飛行を目標に設計されており、中東方面ではマッハ 3.4 の飛行速度が記録された世界史上最速の戦闘機である。しかし、当時は空対空ミサイルの性能が低く、ベトナム戦争では接近戦が発生し、その際に機動性の低いアメリカ空軍の最新鋭機F-105サンダーチーフなどが、旧式なMiG-17やはるかに安価なMiG-21に容易く撃墜されるという事態が発生した。この経験から、格闘性能、機関砲の大切さが再認識され、アメリカ機として比較的機動性が高い機体であるF-4ファントムIIF-106は、当初廃止していた機関砲を後付けで装備し[14]、F-4の活躍でアメリカ軍はなんとかベトナム戦争を凌いだ。スウェーデンサーブ 社の戦闘機はSTOL性能や即席滑走路からの離陸等を考慮し、第2世代機のサーブ 35 ドラケンはダブルデルタ翼(後のストレーキの嚆矢)、第3世代機のサーブ 37 ビゲンはデルタ翼とカナードを組み合わせる、当時としては特異な形態を採用した。


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