戦闘機
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しかし、航続距離が短かったため、侵攻して攻撃する戦法は未熟だった[24]

レシプロ戦闘機の形体が完成していくのと並行して、空冷式エンジンは、素材や設計の進歩により冷却効率が向上したこと、ならびに高回転化に伴って重いエンジン自体を振り回すデメリットが目立ってきたことから星型エンジンに変わっていった。水冷式エンジンも改良が進み、両方とも1000馬力程度までパワーアップした。主翼はしばらく複葉機の全盛時代が続いたが、第二次大戦の開戦前には、少数の複葉機(イタリアCR.42ソ連I-15bisなど)を除き主翼は単葉になった。また同時期に主脚も固定式から引き込み式になり、飛行時には主翼内や胴体内に格納されることで空気抵抗の低減が図られるようになった。機体構造も木製帆布張りから、鉄骨帆布張りへと移行、更に全金属モノコックへと変わっていった。
第二次世界大戦スーパーマリン スピットファイア(手前)とYak-3(奥)

第一次世界大戦における戦闘機は格闘戦的技術尊重が伝統となり撃墜数を競ったが、飛行機、武器の性能向上と数の増大で新しい傾向が生まれていった。編隊空中戦闘の思想が現れ、空戦では各個で行動するが、有利な態勢で空戦を開始するための全体大勢の指導や、終末後の集結帰還の指導が重視された。また、後方視界を持ち武装強化された複座戦闘機が現れ、対戦闘機以外の要地防衛、援護、地上攻撃など多様な戦闘機が現れ始めた[25]。各国ともに国を挙げて戦闘機の改良と増産に励み、大半の戦闘機が全金属製・単葉・単座・単発となったが、例外もまだ多かった。

1921年10月9日、設計自体はイギリスの招聘技師によるものであるが日本でも初の国産戦闘機である一〇式艦上戦闘機が完成した。詳細は「戦闘機無用論」を参照

1921年航空戦力の本質を攻勢とし空中からの決定的破壊攻撃を説いたドゥーエ(イタリア)の「制空」が発刊され、1927年ころには世界的反響を生んだ[26]。ドゥーエやミッチェルに代表される制空獲得、政戦略的要地攻撃重視するために戦略爆撃部隊の保持が好ましく、1930年代には技術的にも可能となり、列強国は分科比率で爆撃機を重視するようになった[27]。日本陸軍でも1928年3月20日統帥綱領制定で航空は攻勢用法に徹底して地上作戦協力を重視し、戦場空中防空、制空獲得の姿は消えてしまった[28]。そういった動きから爆撃機攻撃機)の発達で爆撃を戦略上重視し、戦闘機を軽視する戦闘機無用論が台頭する。日本では1936年前後に陸海軍で広く支持され、攻撃機を重視して戦闘機を無用視する主張や戦闘機に急降下爆撃をさせることで攻撃側にも使うという主張があったが、支那事変で戦闘機の価値が認識された[29]ドイツでも支持されたが、1940年バトル・オブ・ブリテンによって戦闘機の価値を認識した[30]。アメリカでも支持され、1944年にはドイツ奥地への爆撃が中止される甚大な被害を受けて、戦闘機の必要性を認識した[31]

1937年9月日本海軍源田実は支那事変で、それまで主として防御用と見られていた戦闘機を積極的に遠距離に進攻させ、制空権を獲得する「制空隊」を初めとする攻撃的、主体的な戦闘機の戦術を考案した。従来の攻撃機主体の戦術思想を一変させた戦闘機中心の画期的な新戦法であり、戦闘機の新たな価値が認識された[32]。これを端緒に、戦爆連合、戦闘機の単独進出など積極的に使用する航空戦術の型が確立されていった[33]

1938年ドイツ空軍ヴェルナー・メルダーススペイン内戦で、それまで3機編隊が主流となっていた戦闘機の最小編隊構成を、2機1組で編隊を組み、長機が攻撃・追撃に集中し、もう1機の僚機が上空ないし長機の後方で援護・哨戒を行う「ロッテ戦術」を考案した。さらに2機プラス2機の4機で編隊を組む「シュヴァルム戦法」にまで発展させた。これらはドイツ空軍だけの採用に留まらず、後に世界的に利用される編隊の形として定着していった[34]

第二次世界大戦初期までは格闘戦が主流であり、高い格闘性能を持つ機体が空戦で優勢だったが、アメリカ軍のように組織的に格闘戦を避けて一撃離脱を行うように指導する国も現れ、零戦対F4F、スピットファイア対Bf 109の対戦のように格闘戦と一撃離脱のどちらが有利な空戦に持ち込むかも勝敗に関係してきた[35]

日本海軍は太平洋戦争で敗色が濃くなると戦闘機で体当たり攻撃を行う特攻戦法を主張する者が現れた。軍令部第2部長黒島亀人は1943年8月6日戦闘機による衝突撃戦法を提案、1944年4月体当たり戦闘機の開発を提案している[36]。1944年10月20日大西瀧治郎中将によって編成された最初の神風特別攻撃隊の機体として零式艦上戦闘機が使用されて以降戦闘機による特攻が終戦まで行われた。
ジェット戦闘機への移行

第二次世界大戦は、航空機主体の戦いとなり、開戦当初1,000馬力未満だったエンジン出力は大戦後半には2,000 - 2,500馬力にも達した。その急速な技術進歩の過程で、Me262などのジェット戦闘機が誕生した。プロペラは その先端速度が音速(1,200km/時:海面)に近づくと空気圧縮の発生により推進効率が悪くなる。その結果プロペラ機の最高速度は800km/時あたりで頭打ちとなってしまう。レシプロ戦闘機は第二次大戦終了からさほど経たないうちにその速度域に達し、主力戦闘機としての使命が終了した。以後ジェット戦闘機の時代に突入する。

1930年代頃から、レシプロエンジンに代わる新しい推進装置として、ドイツやイギリスなどでジェットエンジンの研究が進められていた。世界で初めて飛行したジェットエンジン機は、1939年に初飛行したハインケルHe178である。第二次大戦後期にかけて各国でP-80 シューティングスター(アメリカ)、Me 262(ドイツ)、ミーティア(イギリス)などのジェット戦闘機が登場したが、本格的な実用化はドイツのMe262だけであった。初期のジェット機はレシプロ戦闘機の設計の延長上にあるものが多く、エンジンの装備位置は、第二次大戦中のMe 262や直線翼機では主翼下に吊り下げたポッド式や主翼に埋め込んだ機体が多かった。MiG-15「第1世代ジェット戦闘機」も参照

ジェット戦闘機が本格的に実戦投入されたのは、朝鮮戦争からである。その頃のアメリカ空軍ではF4Uコルセアなど第二次世界大戦末期に採用されたレシプロ機が多く存在したが、格闘性能ではMiG-15と同等に渡り合うなどジェット戦闘機とレシプロ機の差が交錯する時期でもあった。


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