戦車
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中国語: 坦克(中国語: t?nke・タンクー)
一方、 中華人民共和国における中国語では「??」は古代戦車を意味する。近代戦車は tank を音写して「坦克」と呼んでいる。ただし中華民国台湾)では、日本語と同様に「戰車」と呼んでいる。
朝鮮語: ??(チョンチャ/南)または??(タンク/北)
大韓民国では、日本語と同様に古代戦車・近代戦車ともに「??(戰車)」の語を用いるが、緊圧茶(磚茶)や電車電気機関車)も同じ表記である。外来語として英語の tank を音写した語の表記は??(テンク)である。 北朝鮮では、ロシア語の танк を音写した「??」と呼ぶ[15]
ドイツ語: Panzer(パンツァー、パンヅァー)
ドイツ語では Panzerkampfwagen(装甲戦闘車輌)の略称として Panzer(パンツァー)が一般的である。英語上ではPanzerは「ドイツの戦車」全般を意味する語として取り入れられている[注 7]。元来ドイツ語でPanzer は装甲という意味で、英語の Armour / Armor と同様に、かつては中世騎士などが身につけた金属製の甲冑・を意味した。現代ではPanzerは装甲戦闘車両(戦車)の意味で使われる事が多いので、旧来の鎧はRustung(武具、武装)と呼んで区別されることが増えた[16]。ただし、日本語では装甲戦闘車輌としてのPanzerでも、例えばPanzerdivisionは「戦車師団」ではなく「装甲師団」や「機甲師団」、Panzergrenadierも装甲擲弾兵と訳される[注 8]。また、パンツァーファウスト擲弾発射筒のように原語をそのまま音写するのが一般的な言葉もある。現代のドイツ軍でもパンツァーファウストの名前を受け継いだ後継兵器を使用しており、そのうちパンツァーファウスト3を日本の自衛隊が110mm個人携帯対戦車弾として採用している。そのため日本の公文書中にもパンツァーファウストの文字を見て取れる。
ヘブライ語: ???‎(タンク)
ヘブライ語では近代戦車のことを、英語の「Tank」をヘブライ文字に置き換えた「???」(タンク)と表記する。なお古代戦車(チャリオット)は「?????」(メルカバ)と呼ばれ、イスラエルの主力戦車の名称ともなっている。
フランス語: Char de combat(シャール・ド・コンバ)
フランス語では戦車のことを「Char」(シャール)と呼ぶが、もともとこの語は古代戦車(チャリオット)を指す名称であるため、近代戦車を指す際には「Char de combat」(シャール・ド・コンバ、直訳で「戦闘戦車」)と表記される。「char de bataille」(シャール・ド・バタイユ、戦う戦車)や「char d'assaut」(シャール・ダッソー、突撃戦車)とも表記される。
イタリア語: Carro armato(カルロ・アルマート)
直訳で「装甲車輌」。単に「Carro」(カルロ)とも。
ロシア語: Танк(タンク)
英語の「Tank」をキリル文字に置き換えたもの。
制式名称と愛称

戦車の名称は、兵器としての制式名称と、軍や兵士達によって付けられた愛称とに大別される。愛称については、配備国により慣例が見られる。アメリカは軍人の名前から(もともとは供与元のイギリス軍による命名則)、ドイツは動物の名前、ソ連・ロシアの対空戦車は河川名にちなんでいる。イギリスの巡航 (Cruiser) 戦車や主力戦車では「C」で始まる単語が付けられている。日本では、大日本帝国陸軍皇紀自衛隊では西暦からきた制式名で呼ばれ、前者の場合、カテゴリーや開発順を表す秘匿名称(例・チハ…チ=中戦車、ハ=いろは順の三番目)もつけられていた。
歴史

この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2022年9月)

第一次世界大戦ソンムの戦いに展開するマークI戦車「雄型」

近代工業化による内燃機関の発達にあわせて、第一次世界大戦前より各国でのちに戦車と呼ばれる車輌の構想が持たれるようになっていたが、技術的限界から実現されることはなかった。

第一次世界大戦で主戦場となったヨーロッパではドイツの西部において大陸を南北に縦断する形で塹壕が数多く掘られいわゆる西部戦線を形成した。戦争開始からそれほど間をおかずに巧妙に構築された塹壕線、機関銃陣地、有刺鉄線による鉄条網が施されることとなり防御側の絶対優位により、生身で進撃する歩兵の損害は激しく、戦闘は膠着することとなった。対峙する両軍は互いに激しい砲撃の応酬を行ったため、両軍陣地間にある無人地帯は土がすき返され、砲弾跡があちらこちらに残る不整地と化して初期の装甲車など装輪式車両の前進を阻んでいた。これらの閉塞状況を打破するため、歩兵と機関銃を敵の塹壕の向こう側に送り込むための新たな装甲車両が求められた[18]

このとき注目されたのが、1904年に実用化されたばかりのホルトトラクターであった。これはアメリカのホルト社(現キャタピラー社)が世界で最初に実用化した履帯式のトラックで、西部戦線での資材運搬や火砲の牽引に利用されていた。このホルトトラクターを出発点に、イギリス、フランスなどが履帯によって不整地機動性を確保した装軌式装甲車両の開発をスタートさせた。

イギリスではサー・アーネスト・ダンロップ・スウィントン陸軍少佐がホルトトラクターから着想を得て機関銃搭載車として用いることを考えたが、このアイディアは実現されなかった。その一方、飛行場警備などに装甲自動車中隊を運用していたイギリス海軍航空隊のマーレー・スウェーター海軍大佐が陸上軍艦 (Landship) の提案を行った。1915年3月、この海軍航空隊の提案を受けて、当時海軍大臣であったウィンストン・チャーチルにより、海軍設営長官を長とする「陸上軍艦委員会」が設立され、装軌式装甲車の開発が開始された。

陸上軍艦委員会による幾つかのプロジェクトののち、フォスター・ダイムラー重砲牽引車なども参考にしつつ、1915年9月に「リトル・ウィリー」を試作した。リトル・ウィリー自体は、塹壕などを越える能力が低かったことから実戦には使われなかったが、のちのマーク A ホイペット中戦車の原型となった。リトル・ウィリーを反省材料とし、改良を加えられた「マザー (Mother)」(ビッグ・ウィリー)が1916年1月の公開試験で好成績を残し、マーク I 戦車の元となった。

1916年9月15日ソンムの戦いの中盤で世界初の戦車の実戦投入が行われマーク I 戦車は局地的には効果を発揮したものの、歩兵の協力が得られず、またドイツ軍の野戦砲の直接照準射撃を受けて損害を出した。当初想定されていた戦車の運用法では大量の戦車による集団戦を行う予定であった。しかしこのソンムの戦いでイギリス軍は49両戦車を用意し、稼働できたのは18両、そのうち実際に戦闘に参加できたのは5両だけだった。結局、膠着状態を打破することはできずに連合国(協商国)側の戦線が11kmほど前進するにとどまった。

その後、1917年11月20日カンブレーの戦いでは世界初となる大規模な戦車の投入を行い、300輌あまりの戦車による攻撃で成功を収めた。その後のドイツ軍の反撃で投入した戦車も半数以上が撃破されたが、戦車の有用性が示された攻撃であった。第一次世界大戦中にフランス、ドイツ等も戦車の実戦投入を行ったものの、全体として戦場の趨勢を動かす存在にはなり得なかった。

後に登場したフランスルノーFT-17という軽戦車は360度旋回する砲塔を装備し砲の死角を無くした。エンジンの騒音と熱気が乗員を苦しめていたことから隔壁で戦闘室と機関室を分離し、それまでの戦車兵の役割の1つだった車内でエンジンを点検する機関手が廃止された。車体も走行装置に車体を載せる方式を改め車体側面に足回りを取り付け、小型軽量な車体と幅広の履帯、前方に突き出た誘導輪などによって優れた機動性を備えた。FT-17は「戦車」としての基本形を整え、初期の戦車設計の参考資料となった。

3,000輛以上生産されたFT-17は第一次世界大戦後には世界各地に輸出され、輸出先の国々で最初の戦車部隊を構成し、当時もっとも成功した戦車となった。

第一次世界大戦から第二次世界大戦の間、各国は来るべき戦争での陸戦を研究し、その想定していた戦場と予算にあった戦車を開発することとなった。敗戦国ドイツも、ヴェルサイユ条約により戦車の開発は禁止されたものの、農業トラクターと称してスウェーデンで戦車の開発、研究を行い、また当時の国際社会の外れ者であるソ連と秘密軍事協力協定を結び、赤軍と一緒にヴォルガ河畔のカザンに戦車開発研究センターを設けた。

戦車が出現した第一次世界大戦中は対戦車用の火砲は存在しない為、対歩兵用の機関銃に耐えられる程度の装甲で十分であり戦車自身の武装も機関銃だった。対戦車用の火砲が登場すると戦車自身の武装も火砲へ移行し装甲もより分厚くなっていき、第二次世界大戦直前には機関銃が主武装の戦車は廃れていった。
第二次世界大戦輸送船から上陸するM4シャーマンイタリア戦線(1944年)


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