戦車競走
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キュレネの王アルケシラオスは彼の奴隷だった御者がそのレースで唯一ゴールしたことにより、紀元前462年ピューティア大祭の戦車競走に優勝した。ペロポネソス戦争中の紀元前416年、アテナイの将軍アルキビアデスは7台の戦車をレースに出走させ、1位と2位、4位となった。彼自身が7台すべての戦車に乗るのは明らかに不可能である。マケドニア王国ピリッポス2世も彼がバルバロイではないことを証明するためにオリンピックの戦車競走に優勝した。もっとも、もし彼が自ら戦車の御者となっていれば蛮族よりも下の身分の者と見なされたであろう。しかしながら、詩人ピンダロスは自ら戦車を駆ったヘロドトスの勇気を讃えている。なお、ピリッポス2世は自らのオリンピアにおける戦車競走優勝を記念して金貨や銀貨を鋳造させた。これらはフィリッペイオイと呼ばれ、戦車と御者を描いた図案は広くヘレニズム世界に普及した[10]

戦車のオーナーを勝者とするこのルールは、競技会に参加したり、競技を観戦したりすることすらできなかったという事実にもかかわらず、女性がレースに勝利することが技術的に可能であることも意味していた。これはまれに起きたことであるが、最もよく知られた例はスパルタの王アルキダモス2世の娘、キュニスカであり、彼女は戦車競走で2度勝利している。

戦車競走はギリシア人にとって競技会においてその富を誇示する場であり、非常に金のかかるものであった。リュクルゴスは都市に壁や神殿を建設するほどにはこのスポーツは有益なものでないと批判している。アリストパネスはその戯曲『雲』の中で、戦車競走に夢中になり家の金を浪費する貴族趣味の息子に頭を悩ませる父親の姿を描いている[11]

戦車競走はギリシア世界における他の競技会でも行なわれ、アテナイで開催されたパンアテナイア競技会においては最も重要な競技であった。これらの競技会では4頭立ての戦車競走の優勝者にはオリーブ油が140アンフォラ与えられた。これは非常に高価な賞品であり、競技者がその競技人生で用い切れないほどの量なのでその大半は他の競技者に売られたものと考えられる。

パンアテナイア競技会にはアポボタイもしくはアナボタイの名で知られる異なる形式の戦車競走が存在した。これは御者が戦車から飛び降りて一定の距離を戦車と並んで走るというもの(アナボタイ)、そこからさらに再び戦車に飛び乗るというもの(アポボタイ)である。これらのレースでは御者が飛び降りて走る間、手綱を握るもう一人の御者がいたが、もちろん、そのいずれの御者も勝者とは見なされない。御者が戦車に乗っていようがいまいが最初にゴールした戦車が優勝となり、また事故にあった場合でも御者が自ら歩くことができるならば、徒歩でゴールラインに達した場合も勝利と見なされた。

戦車競走の他にも紀元前648年には騎乗馬競走、その後も仔馬による競走などの馬が関わる競技が追加されていたが、やはり人気を集めていたのは4頭立ての戦車競走であった。[2]
ローマ期の戦車競走戦車競走の勝利者戦車競走の再現(2007年)
中央に分離帯(スピナ)がある

ローマ人たちに戦車競走を伝えたのは、おそらくギリシア人を通してこのスポーツを知ったエトルリア人たちであるが、紀元前146年にローマ帝国がギリシア本土を征服すると、ギリシア人から直接に影響を受けた。

ローマの伝説によれば、戦車競走はロムルスが紀元前753年にローマを創建した際、サビニ人たちの注意を逸らすために用いられた。サビニの男たちが戦車競走のスペクタクルに興じている間にロムルスとその部下たちはサビニの女たちを捕まえ、連れ去ったのである。この出来事は「サビニの女たちの略奪」としてより一般に知られている。「キルクス」も参照

パンとサーカスのフレーズに代表されるように、民衆の娯楽の中心として戦車競走は親しまれた。[12]

古代ローマにおける戦車競走の中心となったのはパランティーノの丘アヴェンティーノの丘の間の谷にあった大競技場(キルクス・マクシムス)で、25万人が収容できた。競技場はエトルリア時代にまでおそらくさかのぼることができるが、紀元前50年ごろ、ユリウス・カエサルによって縦約621メートル、横約118メートルの規模[13]に再建された。トラックの一方の端はもう一方よりも幅が広くなっており、何台もの戦車がレースのために並ぶことができるようになっていた。

ローマ人はギリシア人のヒュスプレクスにあたるものとしてカルケレスとして知られるゲートを用いた。それらはヒュスプレクス同様にスタート位置をずらしたものとなっていたが、ローマ期のレーストラックにはトラックの中央に分離帯(スピナ)があった。カルケレスはトラックの端に角度をつけて設置され、戦車はばねを仕込んだゲートに入った。戦車の準備が整うと、皇帝(ローマで開催された競技会でない場合は皇帝以外のホスト役の人物)がマッパと呼ばれた布を落とし、レースの開始を知らせた。ゲートはばねの力で開き、すべての出場者を全く公平にスタートさせた。

レースが一旦始まれば、戦車は互いの前に進み、競走相手の車をスピナエ(スピナの単数形)に衝突させようと試みることができた。ただし、映画『ベン・ハー』で描かれたような、車軸に取り付けられた刃物が敵の戦車を破壊する「ギリシアの車輪」は実在しなかった[14]。スピナエには「卵」と呼ばれるギリシア時代の「イルカ」のような装置があり、スピナエの上部に沿って作られた走路に落ちて、残りの周回数を示した。時代が下がるにつれ、スピナは彫像やオベリスク、その他芸術的な方法によって装飾がほどこされ、非常に精巧に作られるようになった。これによって観衆はスピナの向こう側を走る戦車を見ることが難しくなったが、当時の人々はこれがより観戦の興奮を盛り上げるものと考えていたようである。スピナのそれぞれの端には折り返し点を示す標柱(メタエ、メタの単数形)があり、ギリシア時代のときと同様、観衆の目を奪う衝突はこの場所で見ることができた。戦車が壊れ、御者や馬が行動不能になる衝突はナウフラジアと呼ばれ、これはラテン語で「難破」を意味した。御者は、相手の馬を鞭打つことで馬の集中力をそらし「難破」に導くことは認められていたが、相手の御者を鞭で打つことは禁じられていた[14]。戦車のスピードは直線部分では70km/hにも達したため、車輪の軸の発熱を冷ますため走路の脇から水を掛けて冷やすこともあった。メタエの折り返しカーブに差し掛かる部分では速度は落ちるが、それでも30km/hから40km/h程度の速度は出ていたものと考えられる[14]

レースそのものはギリシア時代のものとほとんど変わらなかったが、ローマ時代には毎日、何十ものレースが、時には年に何百日も連続して行なわれていた。しかしながら走行距離はギリシアの12周から7周へ、のちには1日あたりのレース数を増やせるよう5周までとなっていた。さらにローマ式の戦車競走はより金権的であり、御者はその仕事を専門とする者たちで、賭け事も観衆の間で幅広く行なわれていた。

4頭立ての戦車を用いるクワドリガエと2頭立てのビガエがあり、クワドリガエのほうがより重要であった。まれに御者が自らの技術を誇示するために10頭立ての戦車を用いることもあったが、実用的というには程遠かった。

ギリシア人とは異なり、ローマ期の戦車競走の御者たちは、ヘルメットや頭部を保護するものをかぶり、ギリシア人が手綱を両手に持っていたのに対して、ウエストに手綱を巻きつけていた。このためローマ人は戦車が横転し御者台から放り出された際、命を落としたり、自ら脱出に成功したりするまで、手綱に絡まったまま競技場内を引きずられることがあった。このような状況に備えて彼らは自ら手綱を切るためのナイフを携えていた。

いくつかの部分で不正確なところはあるものの、この時代の戦車競走の最も有名かつ最良の再現は映画『ベン・ハー』に見ることができる。ただし、多くのハリウッド映画に登場する二輪戦車はあまりにも大きく重すぎるため、将軍の凱旋行進には最適であるが、実際の戦車競走ではもっと軽く車輪も小さく、重心が低い車体が使われていたと考えられる。このようなレース用の車体は耐久年数も短く、おそらく競技後に分解されるか壊されてしまったと考えられるため、現代まで残っているものは無い。映画等で参考にされているものは、おそらくエトルリア人の墓などから発掘された凱旋行進用ものだと推察される[14]

もう1つの重要な違いは、戦車の御者(アウリガエ)たち自身が、ギリシア時代同様、その多くの者が奴隷であったにもかかわらず、競走の勝者と見なされた点である。彼らは月桂冠とおそらくいくらかの賞金を獲得し、十分な数の勝利を得れば自由民としての身分を買うことができた。御者たちの平均寿命は長くなかったため、彼らは、生き残っていることそれだけで全帝国規模での有名人となることができた。このような著名な御者の1人にスコルポスがいる。彼は27歳でメタ(標柱)に激突して死ぬまで2,000以上のレースに勝利した。馬もまた有名になったが、こちらもその寿命は短かった。ローマの人々は著名な馬の名前や品種、血統を詳細に記録している。また、1127回の勝利を収めたカルプルニアーヌスや、1462回の勝利を収め3度に1度は勝ったと伝えられているガイウス・アップレーイウス・ディオクレースも有名である。カルプルニアーヌスは100万セステルティウス以上の、ガイウスは3600万セステテルティウス以上の賞金を稼いだと考えられている[15]

共和政ローマにおいてそうであったような、政治的もしくは軍事的なかかわりを帝政ローマにおいて持たなかった貧しい人々は、無料で競技場に入場することができた。富裕層は場内がよりよく見え、屋根のついた座席を買うことができ、レース結果について賭け事をしてほとんどの時間を過ごしていたと考えられる。皇帝の宮殿は競技場のそばにあり、しばしば皇帝も観戦に訪れた。これは一般の人々にとって彼らの指導者を目にする数少ない機会の一つであった。特にユリウス・カエサルは人々が自分のことを見ることができるようにしばしばレース観戦を行なった。もっとも、彼自身はレース自体にあまり関心がなかったらしく、大抵、読むものを手に競技場へやってきた。劇場へ赴く際にも書類仕事を持ってきていたので、そのためにあまり好意的には受け取られなかった。

ネロはほとんど他のすべてを除いて戦車競走に関心をもっていた。彼は自ら御者となり、ローマ時代当時まだ開催されていたオリンピックの戦車競走で優勝した。ネロのもとで主要なレーシングの党派の発展が始まった。4つの最も重要な党派は赤チーム、青チーム、緑チーム、そして白チームであった。それらはまず競走馬を生産するさまざまな厩舎の関係者や後援者たちとしておそらく成立したが、それに対してネロ帝はこれらが彼の支配をほぼ超えて発展できるように助成を行なった。

おのおののチームは1レースあたり3台までの戦車をもつことができた。同じチームの構成員同士はしばしば互いに協力して、例えばスピナ(中央分離帯)に向けて相手チームが衝突するように仕向ける(これはルール上認められており、推奨された戦術であった)などして、他のチームに相対した。御者は今日、スポーツ選手が異なるチームにトレードされるのと同様、所属チームを変更することができた。

テルトゥリアヌスは、当初たった2つの党派、冬を祭る白チームと夏に捧げられた赤チームしかなかった、という説に異を唱え、3世紀初頭頃、彼は赤チームは軍神マルスに、白チームは西風の神ゼフィロスに、緑チームは母なる大地もしくは春に、青チームは空と海もしくは秋に献じられていると書いている(『見世物について』9章5節)。


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