戦艦
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建造時に開発・製造可能な最大の大砲(主砲)を搭載している

自艦に搭載した主砲弾の被弾に耐えられる装甲を有している

と考えるようになった。しかし後に政治的事情や金銭的・環境的事情からこれに当てはまらない艦もあった。

戦艦の初期戦術は近距離戦であり、近距離戦に適した多数の副砲で敵艦上部構造へ榴弾を浴びせ戦闘力を奪いつつ、発射速度が劣る主砲はその間に水平射撃で舷側水線部の装甲実体弾徹甲榴弾で撃ち抜き大浸水・沈没をもたらす戦術であった。しかし戦艦の装甲の進歩は徹甲弾の貫通性の進歩に劣らなかったため、主砲弾が命中しても貫通を許さないことが多かった。

その後、主砲の発射速度と遠距離砲撃能力の向上が進められ、優速の艦隊の単縦陣を組むことにより、遠距離から短時間で多数の主砲弾を敵艦へ命中させることが可能となった。

日露戦争は鋼鉄艦同士による初めての本格的な海戦がほぼ遠距離戦で行われた。最大の海戦だった日本海海戦では優位な位置を占めて並航した日本海軍戦艦は遠距離戦による激しい砲撃戦の開始直後から多数の主砲弾をロシア戦艦へ命中させた。ロシア戦艦は舷側水線部を撃ち抜かれ予測に反し浸水による沈没が相次いだが、日本海軍戦艦は多数の被弾に耐えた。加えて、日本海軍は戦艦の主砲で遠距離から合わせて榴弾も射撃し敵艦の上部構造を破壊し急速に無力化する戦術も採用した。沈没を免れたロシア戦艦も戦闘力を喪失しており最終的に全て降伏した。

列強は日露戦争の戦訓を取り入れ、遠距離戦を想定し、主砲の攻撃力を重視する戦艦の改良を図った。この戦訓を最も早く取り入れた英国は、従来艦の倍以上の主砲を片舷に指向できる戦艦ドレッドノート(Dreadnought)を日本海海戦の翌年に竣工させた。この戦艦は従来の同規模の戦艦と比べて、高速航行可能で2倍以上の火力を備えるため海戦において有利となり、それまでの世界の全ての戦艦は一挙に旧式化した。そのため、これ以前の戦艦(計画・建造中、竣工・就役直後の戦艦を含む)を前弩級艦、同程度の性能を有する戦艦を弩級艦として区別する。ここでいう「弩」とは、ドレッドノートの頭文字である。

また戦艦ドレッドノート登場の直後に、同じ英国では、戦艦並みの火力と、巡洋艦並みの速度をあわせもつ艦として、巡洋戦艦が登場した。このイギリスの巡洋戦艦は、概念・任務としてはほぼ巡洋艦のままであり、戦艦級の装甲防御力は持たなかった。これに対し、ドイツで対抗して建造された巡洋戦艦は、巨砲の搭載を追求しない代わりに、装甲防御力を重視し、イギリスの巡洋戦艦隊との交戦にも有利となるように設計された。

第一次大戦になると、砲弾の徹甲性能向上およびさらに遠距離砲撃による大落下角射撃[注釈 4]と、短時間に多数の徹甲榴弾の砲撃を行い、敵艦の水平防御を撃ち抜き内部で爆発させる戦術が発達した。対策として砲塔および甲板全体にわたる厚い水平防御も必要となった。

第一次大戦の最大の海戦であるユトランド沖海戦においては、英独両国の高速の巡洋戦艦隊同士の激しい撃ち合いとなったが、主力である弩級戦艦隊は戦場への急行が遅れ気味となり全力を挙げての決戦には至らなかった。加えて、砲塔などバイタルパートの装甲を貫徹されたイギリスの巡洋戦艦が、弾火薬庫の誘爆で轟沈する事例が相次いだ。

このユトランド沖海戦の戦訓は、「戦艦は速度が不足し、巡洋戦艦は防御力が不足している」と認識された。以降建造された戦艦は高速化と航続性能が向上され、巡洋戦艦の防御力は当初より大幅に向上し、やがて両者の区別がつかないまでに発展していく。そのような戦艦の防御力と巡洋戦艦の速度を兼ね備えようとした艦を、「高速戦艦」(ポスト・ジャトランド型)と呼ぶ。

しかし加熱する建艦競争によって起きた前弩級戦艦、弩級戦艦、巡洋戦艦、高速戦艦という目まぐるしい軍艦の発達について来られる国は少なくなっていった。第一次世界大戦より後に新造戦艦を就役させることができたのは、アメリカ、日本、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアだけだった。

より大型に、より高性能になっていく戦艦は、建造費も高騰していき、もともと砲撃戦に特化しているが故に汎用性に欠け、戦艦同士の戦闘以外に容易に投入出来ず、融通のきかない使い勝手の悪い艦になっていった。機雷、魚雷(を搭載する水雷艇駆逐艦)、そして潜水艦というより安価な兵器が、次第に戦艦の脅威となっていく。そして航空機の登場が、戦艦にとどめを刺すことになる。第一次世界大戦は航空機が軍事に導入された初めての戦争でもあり、以後の海軍は航空兵力に護衛された艦隊ないし航空兵力による単独攻撃という新しい局面に対応することになる。第二次世界大戦においては、水上艦は航空戦力に対して単独では対抗できないことが明らかになる。航空戦力の優位性を世界に初めて知らしめたのはイギリスによるイタリア・タラント空襲と日本による真珠湾攻撃である。これらは停泊中の艦船に対する攻撃であるが、日本がマレー沖海戦において戦闘航行中の戦艦(イギリス海軍の「プリンス・オブ・ウェールズ」と僚艦「レパルス」)を航空戦力のみで撃沈して航空機の有用性を確固たるものにした。その後の海戦における戦艦の行動は、自国の航空部隊の掩護下(アメリカ海軍)または航空機の活躍出来ない夜間(レイテ沖海戦の西村艦隊)などに限定されるようになり、やがて戦艦は消えていくことになる。また、ドイツ軍の誘導滑空爆弾フリッツXによるイタリア海軍のローマ (戦艦)撃沈は、将来格下の巡洋艦以下の艦艇にも搭載可能になるであろう誘導対艦ミサイルで戦艦の主砲射程外から戦艦を撃破可能であることを予感させた。アメリカ海軍のみは、巡航ミサイル搭載等の近代化改修を施した上で、上陸支援目的で長く戦艦を使い続けたものの、もはや戦艦を新造することはなくなった。遅れて巡洋艦も減勢し、戦艦を直接無力化した空母はジェット機搭載のために巨大化して米国以外では減勢し、その後は巨大化した駆逐艦(後述の初期戦艦より大排水量化しつつある)以下の水上戦闘艦や、戦艦の終焉と相前後して現れた水上艦連続任務期間と同等の連続潜水任務期間に達する原子力潜水艦を含む潜水艦と、ターボファン化と空中給油の実用化で搭載量や航続距離が増した軍用機や、誘導能力を得たミサイルが、かつて戦艦が行っていた戦術(制海・哨戒・沿岸攻撃)・戦略(戦略核兵器や砲艦外交)任務の多くを引き継いだ。
日本装甲艦「東」

日本では、明治初年の海軍創設時から日清戦争あたりまで、フランス製装甲艦「」を「甲鉄」と呼称していたことから、装甲艦を砲塔甲鉄艦と呼んでいた。

1894年、富士型2隻(1897年竣工の富士八島)をイギリスに発注するに当たり、排水量1万トン以上の艦を「一等戦艦」、1万トン以下の艦を「二等戦艦」と正式に定めた。日露戦争終戦後まもなく、等級を廃して「戦艦」という艦種が定められた。

日露戦争で活躍した戦艦「富士」(1897年竣工、イギリス製、12,533t、30.5cm砲4門)は、ロイヤル・サブリン級戦艦を原型とし、マジェスティック級戦艦で採用された全面装甲式砲塔にフォーミダブル級戦艦で採用された30.5cm砲を収めた。また、日本海海戦時の連合艦隊旗艦「三笠」(1902年竣工、イギリス製、15,140t、30.5cm砲4門)は、カノーパス級戦艦で採用されたクルップ鋼を用いて装甲強化を行った。
初期の戦艦(1892年-1904年)

初期の戦艦は、排水量1万-1万5千t、24-34cm(30.5cm=12inが最も多かった)の主砲4門を搭載し14-19ノットの速度だった。この頃、戦艦を建造していたのは、イギリスフランスドイツ帝国アメリカイタリアロシア帝国オーストリア・ハンガリー帝国の7カ国。

日本は日露戦争の前にイギリスから6隻の戦艦を購入した。日本以外にも戦艦を他国から購入した国は、隣国間で紛争の多かったトルコギリシャ、南米で競争関係にあったアルゼンチンブラジルチリ。海軍復興に邁進するスペイン。ヨーロッパ諸国に対抗するため北洋艦隊等の近代的海軍を創設した中国清朝である。

これらの戦艦は砲戦距離数千mでの目視による直接射撃を想定して建造されていた。
最初の戦闘(1904年-1905年)

世界で最初に戦艦同士の本格的な戦闘が行われたのは、1904年日露戦争だった。日露戦争の初期の黄海海戦には、日本連合艦隊の戦艦4隻+装甲巡洋艦2隻とロシア第一太平洋艦隊(旅順)の6隻の戦艦が対戦し、翌年の日本海海戦では、日本の連合艦隊の戦艦4隻+装甲巡洋艦8隻と、ロシア第2及び第3太平洋艦隊(バルチック艦隊)の戦艦8隻他が対戦した。いずれも日本の連合艦隊の勝利に終わった。黄海海戦では逃走するロシア艦隊と追いかける日本艦隊の間で、距離1万m以上の遠距離砲戦が起こった。
ドレッドノートの出現(1906年)戦艦ドレッドノート

日露戦争での黄海海戦と日本海海戦(1905年)の戦訓から、戦艦の主砲による遠距離砲撃力が海戦の雌雄を決すると認識された。これを受けて1906年に主砲の門数を倍以上に増やし、主砲だけで戦うという画期的な建艦思想に基づいて設計された戦艦「ドレッドノート」(Dreadnought、18,110t、30.5cm砲10門)」が英国で建造された。


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