戦略地政学
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冷戦が始まると、ニコラス・スパイクマンジョージ・ケナンは、その後40年にわたって西欧の地政学的思考を支配することとなる、米国の封じ込め政策の基礎を築いた[22]

アレクサーンドル・デ・プローフィエフ・セーヴェルスキイ航空戦力が地政学的な考慮事項を根本的に変えたとの説を唱え、"航空戦力の地政学"を打ち出した。彼の考えはドワイト・D・アイゼンハワー大統領の政権に影響を与えたが、スパイクマンとケナンの意見の方がより重視された[22]。冷戦後期には、コリン・グレイは航空戦力が地政学的な考慮事項を変えるという考えを断固として否定し、ソール・B・コーエンは、最終的にドミノ理論を告げることになる"シャッターベルト"という考えを検討した
ポスト冷戦

冷戦終結後、各国は軍事力による勢力圏拡張よりも低コストな管理を好むようになった。勢力圏確保のために軍事力を行使することは、各国に大きな負担を強いるだけでなく、国家間の相互依存性が高まり続けていることから、国際社会から厳しい批判を受けることとなる。新しい勢力圏管理の方法として、各国は地域組織や特定の問題に関連したレジームを作ることで、間接的に介入することが可能になった[25]。間接的な勢力圏管理は、資本の流出を削減すると同時に、管理への正当性と合法性を提供し、関係国は国際社会からの批判に直面する必要がなくなる。

ベルリンの壁が崩壊して以来、ほとんどの北大西洋条約機構・旧ワルシャワ条約機構加盟国の地政学的戦略は安全保障義務や地球資源への権限強化の経過を辿ってきたが、その他の国の戦略はそれほど顕著ではなかった。
特筆すべき地政戦略学者

以下の地政戦略学者は、主要な地政戦略学のドクトリンの確立・発展に大きな働きをした。他にも多くの地政戦略学者がいるが、これらの者は、この分野全体を形成し発展させたという点において最も影響力を持っている。
アルフレッド・セイヤー・マハン

アルフレッド・セイヤー・マハンはアメリカの海軍士官であり、アメリカ海軍大学校の学長であった。彼ら 彼は、海軍の優位性が大国同士の戦争における決定的な要因であると説いた著書『海上権力史論』で最もよく知られている。1900年、マハンの著書『アジアの問題』が出版された。この本の中で彼は近代における地政戦略学を初めて展開した。

マハンは『アジアの問題』において、アジアの3つの地帯に区分している:

北部地帯:北緯40度線の以北に位置するで、寒冷な気候が特徴で、ランドパワーが支配している。

「議論の余地のある("Debatable and Debated" )」地帯:北緯40度線と北緯30度線の間に位置し、温帯気候を特徴とする。

南部地帯:北緯30度線以南に位置し、熱帯気候が特徴で、シーパワーが支配する[26]

マハンは、「議論の余地のある」地帯には、アジアの両端にある2つの半島(アナトリア朝鮮半島)、スエズ運河パレスチナシリアメソポタミア、山脈が特徴的な2つの国(イランアフガニスタン)、パミール山地ヒマラヤ揚子江、そして日本が含まれていると考察した[26]。この地帯の中には、外部からの影響に耐えうる、あるいは自国の国境内で安定を維持できるような強大な国家は存在しないと、マハンは主張した。つまり、マハンの見解では、北部と南部の政治情勢は比較的安定しており確立されているのに対し、中央部は 「議論の余地のある」地帯にとどまっているのである。

北緯40度線以北の広大なアジアはロシア帝国が支配していた。ロシアは大陸の中央に位置し、一方をコーカサス山脈とカスピ海、他方をアフガニスタンと中国西部の山々に囲まれた中央アジアへ楔状に突出していた。マハンは、ランドパワーであるロシアの拡張主義とアジア大陸での優位性の獲得を防ぐのには、アジアの側面に圧力をかけることが、シーパワーが唯一実行可能な戦略であると考えていた[26]

北緯30度線以南は、英国米国ドイツ日本といったシーパワーの支配地域とされた。マハンにとって、イギリスによるインド領有は戦略的に重要な意味を持つものであり、インドは中央アジアでロシアに対してバランスのとれた圧力をかけるのに最適であった。エジプト中国マレーシアオーストラリアカナダ南アフリカにおけるイギリスの優位性も重要視されていた[26]

マハンは、シーパワーはロシアが海上交易から得られる権益の阻止を戦略の旨とすべきだとした。彼はトルコ海峡もデンマーク海峡も敵対国によって閉鎖される可能であることが、ロシアの海上進出を阻止することになると指摘した。さらに、この不利な立場によって、ロシアは富や不凍港を得るための拡張主義的傾向を持つことになるとした[26]。自然、海へのアクセスを求めるロシアの地理的目標は、中国沿岸部・ペルシャ湾・そしてアナトリア半島となる。

このランドパワーとシーパワーの戦いでは、ロシアはフランス(本来はシーパワー国であるが、この場合は必然的にランドパワーとして行動する)と同盟を組み、ドイツ・イギリス・日本・アメリカはシーパワーとしてこれに対抗することになる[26]。さらにマハンは、効率的に組織された陸軍と海軍を持ったトルコシリアメソポタミアからなる近代統一国家を樹立し、これをもってロシアの拡大に対抗させることを構想した。

マハンは地理的特徴によってさらに世界を区分し、スエズ運河パナマ運河が最も影響力のある2つの分界線になると述べている。先進国や資源は世界地図上の北側に集中しているため(南北問題)、2つの運河の北側の政治や商業は、運河の南側のものよりもはるかに重要である。このように、歴史的な発展の大きな進展は、北から南へではなく、東から西へと流れていくことになり、この場合はアジアを前進拠点とすることになる[26]マハンが1900年に発表した『アジアの問題』による世界区分。緑色の線で示された北緯30度線と北緯40度線の間にあるのは、マハンが「議論の余地がある」あるとしたアジア地帯であり、ランドパワー・シーパワー間の覇権競争の対象とされる。 .mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}  The two allied land powers, the Russian Empire and France   The portions of Asia above the 40th parallel under effective influence of Russian land power   The four allied sea powers, Great Britain, the German Empire, Japan, and the United States   The portions of Asia below the 30th parallel subject to effective control by sea power   Key waterways identified by Mahan: the Suez Canal, Panama Canal, Turkish Straits, Strait of Gibraltar, and Danish Straits.
ハルフォード・マッキンダー

ハルフォード・マッキンダーの代表作『デモクラシーの理想と現実』が発表されたのは、1919年のことであった。同書はハートランドについての彼の理論を提示するとともに、パリ講和会議で地政学的要因を十分に考慮することを主張しており、ウッドロウ・ウィルソン理想主義と地理学的見地に基づく現実を対比させた。本書は"東欧を支配する者はハートランドを制し、ハートランドを支配する者は世界島を制し、世界島を支配する者は世界を制する"との格言でつとに知られる。

このメッセージは、ドイツとロシアを分離するための緩衝地帯の必要性から、パリ講和会議で世界の政治家たちにハートランドへの到達に戦略上重要な東欧の価値を訴えるために作られたものであった。これらの緩衝地帯は和平交渉によって作られたが、1939年には効果のない防波堤であることが証明された(戦間期における政治家たちの失敗と同様と言えるかもしれないが)。彼の仕事の最大の関心事は、別の大きな戦争の可能性を警告することであった(経済学者ジョン・メイナード・ケインズも警告している)。

マッキンダーは反ボリシェビキであり、1919年末から1920年初頭にかけてのロシア南部のイギリス高等弁務官として、白ロシア軍への支援を継続する必要性を強調した[27]


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