戦略地政学
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

マハンは、「議論の余地のある」地帯には、アジアの両端にある2つの半島(アナトリア朝鮮半島)、スエズ運河パレスチナシリアメソポタミア、山脈が特徴的な2つの国(イランアフガニスタン)、パミール山地ヒマラヤ揚子江、そして日本が含まれていると考察した[26]。この地帯の中には、外部からの影響に耐えうる、あるいは自国の国境内で安定を維持できるような強大な国家は存在しないと、マハンは主張した。つまり、マハンの見解では、北部と南部の政治情勢は比較的安定しており確立されているのに対し、中央部は 「議論の余地のある」地帯にとどまっているのである。

北緯40度線以北の広大なアジアはロシア帝国が支配していた。ロシアは大陸の中央に位置し、一方をコーカサス山脈とカスピ海、他方をアフガニスタンと中国西部の山々に囲まれた中央アジアへ楔状に突出していた。マハンは、ランドパワーであるロシアの拡張主義とアジア大陸での優位性の獲得を防ぐのには、アジアの側面に圧力をかけることが、シーパワーが唯一実行可能な戦略であると考えていた[26]

北緯30度線以南は、英国米国ドイツ日本といったシーパワーの支配地域とされた。マハンにとって、イギリスによるインド領有は戦略的に重要な意味を持つものであり、インドは中央アジアでロシアに対してバランスのとれた圧力をかけるのに最適であった。エジプト中国マレーシアオーストラリアカナダ南アフリカにおけるイギリスの優位性も重要視されていた[26]

マハンは、シーパワーはロシアが海上交易から得られる権益の阻止を戦略の旨とすべきだとした。彼はトルコ海峡もデンマーク海峡も敵対国によって閉鎖される可能であることが、ロシアの海上進出を阻止することになると指摘した。さらに、この不利な立場によって、ロシアは富や不凍港を得るための拡張主義的傾向を持つことになるとした[26]。自然、海へのアクセスを求めるロシアの地理的目標は、中国沿岸部・ペルシャ湾・そしてアナトリア半島となる。

このランドパワーとシーパワーの戦いでは、ロシアはフランス(本来はシーパワー国であるが、この場合は必然的にランドパワーとして行動する)と同盟を組み、ドイツ・イギリス・日本・アメリカはシーパワーとしてこれに対抗することになる[26]。さらにマハンは、効率的に組織された陸軍と海軍を持ったトルコシリアメソポタミアからなる近代統一国家を樹立し、これをもってロシアの拡大に対抗させることを構想した。

マハンは地理的特徴によってさらに世界を区分し、スエズ運河パナマ運河が最も影響力のある2つの分界線になると述べている。先進国や資源は世界地図上の北側に集中しているため(南北問題)、2つの運河の北側の政治や商業は、運河の南側のものよりもはるかに重要である。このように、歴史的な発展の大きな進展は、北から南へではなく、東から西へと流れていくことになり、この場合はアジアを前進拠点とすることになる[26]マハンが1900年に発表した『アジアの問題』による世界区分。緑色の線で示された北緯30度線と北緯40度線の間にあるのは、マハンが「議論の余地がある」あるとしたアジア地帯であり、ランドパワー・シーパワー間の覇権競争の対象とされる。 .mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}  The two allied land powers, the Russian Empire and France   The portions of Asia above the 40th parallel under effective influence of Russian land power   The four allied sea powers, Great Britain, the German Empire, Japan, and the United States   The portions of Asia below the 30th parallel subject to effective control by sea power   Key waterways identified by Mahan: the Suez Canal, Panama Canal, Turkish Straits, Strait of Gibraltar, and Danish Straits.
ハルフォード・マッキンダー

ハルフォード・マッキンダーの代表作『デモクラシーの理想と現実』が発表されたのは、1919年のことであった。同書はハートランドについての彼の理論を提示するとともに、パリ講和会議で地政学的要因を十分に考慮することを主張しており、ウッドロウ・ウィルソン理想主義と地理学的見地に基づく現実を対比させた。本書は"東欧を支配する者はハートランドを制し、ハートランドを支配する者は世界島を制し、世界島を支配する者は世界を制する"との格言でつとに知られる。

このメッセージは、ドイツとロシアを分離するための緩衝地帯の必要性から、パリ講和会議で世界の政治家たちにハートランドへの到達に戦略上重要な東欧の価値を訴えるために作られたものであった。これらの緩衝地帯は和平交渉によって作られたが、1939年には効果のない防波堤であることが証明された(戦間期における政治家たちの失敗と同様と言えるかもしれないが)。彼の仕事の最大の関心事は、別の大きな戦争の可能性を警告することであった(経済学者ジョン・メイナード・ケインズも警告している)。

マッキンダーは反ボリシェビキであり、1919年末から1920年初頭にかけてのロシア南部のイギリス高等弁務官として、白ロシア軍への支援を継続する必要性を強調した[27]

マッキンダーの功績は、イギリスで地理学が独自の学問として確立される道を切り開いたことである。 地理学の教育を発展させたという点に置いて、おそらく他のイギリスの地理学者と比べても彼の役割は最も大きいものであろう。

オックスフォード大学は1934年に至るまで地理学に教授職を置くことはなかったが、リバプール大学ウェールズ大学アベリストウィス校は1917年に地理学の教授職を設置した。マッキンダー自身も1923年にロンドン大学ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)の地理学の正教授となった。

マッキンダーは2つの新しい用語を英語に導入したと言われる。すなわち"マンパワー"と"ハートランド"である。

ハートランド理論は国家有機体説(Geopolitik)を唱えるドイツ学派、特にその主要な提案者であるカール・ハウスホーファーによって熱狂的に取り上げられた。なお、国家有機体説は1930年代にナチス・ドイツによって受け入れられることとなる。ドイツにおけるハートランド理論の解釈は、第二次世界大戦時におけるフランク・キャプラ監督のアメリカプロパガンダ映画『我々はなぜ戦うのか』シリーズの第二弾である「ナチス侵攻!(英語版)」で明示的に言及されている(マッキンダーとの関連については言及されていない)。

ハートランド理論(より一般的には古典的地政学)及び地政戦略学は、冷戦時代の米国の外交政策立案に非常に大きな影響力を持っていた。[28]

マッキンダーのハートランド理論は、地政学者ディミトリー・キツィキスの地政学モデル「中間領域」などにおいても見られる。
リードリヒ・ラッツェルFriedrich Ratzel.

フリードリヒ・ラッツェルは、マハンやドイツの地理学者カール・リッターアレキサンダー・フォン。フンボルトらの研究の影響を受け、ドイツ独自の地政学の基礎を築いた。

Ratzelラッツェルはランドパワーとシーパワーの自然な分断について書き、貿易による利益が商船団の発展を支えることから、シーパワーは自立的であるという点でマハンに同意した[29]。 しかしながら、彼の重要な貢献は、"生存圏"(ラウム)の概念と国家有機体説の理論を進展させてことにあった。彼は、国家とは生物のように成長するものであり、国境は一時的なものに過ぎず、自然な動きの一時停止を表すものであると理論化した。すなわち、精神的に国家(この場合、ドイツの人々)と結びついた土地であるラウムから人々は栄養を得て、土地は彼らのクルトゥル(文化)によって肥沃にさせられる。そしてさらに隣接する劣った国家を見つけて自らの養分とするのである[30]

ラッツェルの考えは、彼の弟子であるルドルフ・チェーレンやカール・ハウスホーファーの研究にも影響を与えた[29]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:78 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef