科学あるいは科学に基づく政治的実践としての地政戦略学は、事実と経験的分析を用いているため、地政戦略学の理論的定式化は、戦略的アプローチの違いや競合する戦略的アプローチによって事実と価値観の関係や結論は異なるものの、通常は経験則に大きく依存している[17]。理論に基づく地政戦略学構想は、その国の対外政策や国際政策の基礎となる[18]。また、地理戦略的概念は、共通の歴史・国同士の関係・文化・プロパガンダなどにより、歴史的に習得されたり、さらには国を跨いで継承されたりするものである[19]。
地政戦略学が考慮しなければならない立地には、川谷・内海・外海・世界島などがある。例えば、西欧文明の起源は、エジプトのナイル川やメソポタミアのチグリス川・ユーフラテス川の渓谷にあった。ナイル川・チグリス川・ユーフラテス川は、作物生産のための肥沃な土壌を提供しただけでなく、流域に住む者たちにの創意工夫を強いる洪水をもたらした。この地域の気候は、主に農業を基盤とした生活に適していた。 川はまた、人力と風力が船の動力であった時代に交易路を提供した。川谷は、人々の政治的発展のための統一因子となった[20]。 早くもヘロドトスのころから、観察眼の持ち主たちは戦略が当事者の地理的背景に大きく影響されると考えていた。ヘロドトスは『歴史』の中で、古代エジプト・アケメネス朝ペルシャ・スキタイ・古代ギリシャの間の文明の衝突を描いているが、これらはすべて形而下の地理的背景に大きく影響されているとヘロドトスは考えていた[21]。 ハインリッヒ・ディートリッヒ・フォン・ビューローは、戦略の幾何学的な科学を提案した『新戦争体系の精神』を1799年に著した。彼の理論では、小さな国家を大きな国家が飲み込んでいき、最終的には11の大国家にまとまると予測された。マッキュービン・トーマス・オーウェンズは、この予測とドイツ統一とイタリア統一後のヨーロッパ勢力図との近似性を指摘している[22]。 1890年から1919年の間は、世界は地政戦略学者のパラダイスの様相を呈し、古典的な地政学的理論の定式化につながった。当時の国際システムは、(多くの場合、世界を巻き込んでの)列強の台頭や没落により特徴づけられた。大国が探検したり植民地化したりするための新たなフロンティアはもう残されておらず、世界全体が帝国と植民地化した大国の間で分断されていた。この時点から、国際政治は国家対国家の闘いを特徴とするようになる[22]。 地政学の思想には、英米学派とドイツ学派の2つの系統がある。 アルフレッド・セイヤー・マハンとハルフォード・マッキンダーは、それぞれ著作『アジアの問題(The Problem of Asia)』と『地理学からみた歴史の回転軸(The Geographical Pivot of History)』の中で、アメリカとイギリスの地政学の概念を概説している[23]。フリードリヒ・ラッツェル とルドルフ・チェーレンは、ドイツ独自の地政学派の基礎を築いた国家有機体説を展開した[22]。 ドイツの最も著名な地政学者はカール・ハウスホーファーであった。第二次世界大戦後、連合軍軍政期のドイツにおいて、アメリカ合衆国はニュルンベルク裁判で戦争犯罪の審査のために、多くの役人や公人を調査した。学会の第一人者であるハウスホーファーは、米当局の要請を受けて、ジョージタウン大学外交政策大学院の地政学教授エドモンド・A・ウォルシュ神父に尋問された。ハウズホーファーはナチス・ドイツの侵略正当化の論拠を与えていたものの、ウォルシュ神父は彼が裁判に立つべきではないと判断した[24]。 第二次世界大戦後、ナチズムと国家有機体説との関係から「地政学」という言葉は不評を買った。第二次世界大戦末期から1970年代半ばまでに出版された本の中で、「地政学」や「戦略」という言葉をタイトルに使用したものは事実上なく、地政学者自身もその語を用いなかった。戦後日本においても、大東亜共栄圏を根拠付け日本の膨張政策を推進したとして、GHQにより論議を禁止され、長らく学会においてもタブー視される期間が続いた[1]。ドイツの理論は、ロバート・ストラウスズ・ヒューペ、ダーウェント・ウィットルシー、アンドリュー・ジャイジーなどのアメリカの地政学者によるドイツ流地政学(geopolitik)への多くの批判的な検証を促した[22]。 冷戦が始まると、ニコラス・スパイクマンとジョージ・ケナンは、その後40年にわたって西欧の地政学的思考を支配することとなる、米国の封じ込め政策の基礎を築いた[22]。 アレクサーンドル・デ・プローフィエフ・セーヴェルスキイは航空戦力が地政学的な考慮事項を根本的に変えたとの説を唱え、"航空戦力の地政学"を打ち出した。彼の考えはドワイト・D・アイゼンハワー大統領の政権に影響を与えたが、スパイクマンとケナンの意見の方がより重視された[22]。冷戦後期には、コリン・グレイは航空戦力が地政学的な考慮事項を変えるという考えを断固として否定し、ソール・B・コーエンは、最終的にドミノ理論を告げることになる"シャッターベルト"という考えを検討した 冷戦終結後、各国は軍事力による勢力圏拡張よりも低コストな管理を好むようになった。勢力圏確保のために軍事力を行使することは、各国に大きな負担を強いるだけでなく、国家間の相互依存性が高まり続けていることから、国際社会から厳しい批判を受けることとなる。新しい勢力圏管理の方法として、各国は地域組織や特定の問題に関連したレジームを作ることで、間接的に介入することが可能になった[25]。間接的な勢力圏管理は、資本の流出を削減すると同時に、管理への正当性と合法性を提供し、関係国は国際社会からの批判に直面する必要がなくなる。 ベルリンの壁が崩壊して以来、ほとんどの北大西洋条約機構・旧ワルシャワ条約機構加盟国の地政学的戦略は安全保障義務や地球資源への権限強化の経過を辿ってきたが、その他の国の戦略はそれほど顕著ではなかった。 以下の地政戦略学者は、主要な地政戦略学のドクトリンの確立・発展に大きな働きをした。他にも多くの地政戦略学者がいるが、これらの者は、この分野全体を形成し発展させたという点において最も影響力を持っている。 アルフレッド・セイヤー・マハンはアメリカの海軍士官であり、アメリカ海軍大学校の学長であった。彼ら 彼は、海軍の優位性が大国同士の戦争における決定的な要因であると説いた著書『海上権力史論』で最もよく知られている。
歴史
先駆け
黄金期
第二次世界大戦Fr. Edmund A. Walsh, SJ
冷戦
ポスト冷戦
特筆すべき地政戦略学者
アルフレッド・セイヤー・マハン
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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