戦災孤児
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戦災孤児の餓死者は多く、中には自殺の道を選んだものもいる[10][11]

世間から冷たくあしらわれたことは、戦災孤児の間での強い結束感を生んだ[12]。このような集団では自然に「仁義」を貫くことが常識になり[13]、やがて窃盗団を結成したり暴力団の下働きをする場合も少なくなかった。このことが後の戦災孤児の保護について治安対策の要素を帯びる要因となっている。

1945年12月15日に閣議決定された生活困窮者緊急生活援護要綱においては生活困窮者の中に戦災者が含まれていた[14]。しかし、戦災者の中に戦災孤児は含まれなかったため、彼らは生活援護の非対象のまま放置された[14]。続いて1946年4月15日に浮浪児その他の児童保護等の応急措置実施に関する件、9月19日に主要地方浮浪児等保護要綱が発表された[15]。太平洋戦争中、戦災孤児や「国児」と呼ばれていたものが、これらの時点で浮浪児の用語に変わったように[16]、ともかく保護施設への収容を目的とした政策だった。

浮浪児の数についてはいくつかの調査があるが、正確な数は把握できていない。厚生省児童局養護課調「各種保護児童数調(1947年6月15日現在)」によれば、浮浪児は未収容者1,545人(男1,240人、女305人)、収容者4,080人(男3,135人、女945人)とされている[17]。一方、『日本社会事業年鑑 昭和22年版』によると、浮浪児は1946年7月末現在3,080人で、このうち施設に収容されていたのは1,514人だった[18]。また、1946年8月末現在「親類縁故収容施設等に収容保護されて」いる戦争孤児は2,837人(乳幼児433人、学童2,404人)とされている[18]。「全国所在地別引揚戦災孤児収容施設数及収容中引揚戦災孤児数」によれば、1946年12月10日現在、268カ所の施設に7,615人 (男子3,127人、女子1,787人、男女不詳2,701人)の植民地占領地引揚孤児が収容されていたとの記録もある[19][5]「狩込」によって強制収容された「浮浪児」(お台場の収容施設)

戦後の戦災孤児は、「国児」としての戦争被害者から一転して「浮浪」している反社会的存在と見られるようになり、取り締まりの対象になった[16]。全国の自治体へは、警察と協力し「浮浪児」を発見、保護者に引き渡すか、児童保護施設へ収容することの徹底が指示された[16]。このような「浮浪児」の発見・捜索と収容施設への強制収容を「児童狩込」「狩込」と当時呼んでいた[20][21]

「狩込」が実施されるようになった背景は、日本政府の主体的措置というよりも、むしろGHQ公衆衛生福祉局が厚生省や東京都警視庁に対して、一週間以内に「ケアと保護を要する児童」を保護し、鑑別所保護施設を作り、鑑別後に施設に送致するよう厳命したことがある[22]。なお、GHQ民政局も公文書内で「狩込」という用語を用いている点は無視できない[21]

こうした状況について、1946年(昭和21年)10月にはGHQから戦災孤児、混血児問題などについて福祉的政策をとるようにとの指示が日本政府に下され、1947年(昭和22年)には厚生省内に児童局(児童家庭局、厚労省雇用均等・児童家庭局を経て現・子ども家庭局)が設置され、福祉の観点からの対策に取り組むこととなった。太平洋戦争による保護者不在の問題は、1960年代まで続いていた可能性がある。ペコちゃん人形とペコちゃんの持っているミルキーを狙う戦災孤児 (1950年、銀座、撮影:田沼武能)
「駅の子」「上野駅」(1946年〈昭和21年〉、林忠彦撮影)

日本国内での戦災孤児の呼び方は時代とともに変わってきた。太平洋戦争中は、戦災孤児を指して「遺児」または「戦災遺児」と呼んでいた[23]。太平洋戦争もほとんど終盤の1945年 (昭和20年) に、政府が「国児」という呼び名へ変えようとしていたことはすでに述べた通りである。

戦後70年にあたる2015年 (平成年) 頃から一部のマスコミが戦災孤児を指して「駅の子」という呼び方を使うようになったが、そのような使用例は京都だけで、一般的な呼び名ではない[24]。例えば、大阪では梅田駅周辺に戦災孤児が集まっていたが、大阪では戦災孤児は「駅前小僧」と呼ばれていた[25]。また、これらの使用例についても果たしてこれらの地域で一般的に使われていたのかも定かではない。そもそも、戦災孤児に関する研究は散発的で少なく、本格的に始まったのは2000年代後半からである上に、かつての戦災孤児の口は重く、証言の数も限られているためである。当時の一般的な呼び方は「浮浪児」である[25][26]

2018年にNHKが、NHKスペシャル「駅の子の闘いー語り始めた戦争孤児ー」 (2018年8月放送) のタイトルとして使用したため、「駅の子」という呼び方が全国的に知られるようになった[26]。この番組で「駅の子」と呼び方を使ったのは、それ以前に本庄豊がその名前を使った著作を出していたからだが、本庄は、その呼び方が一般的だからという理由からではなく、一種のプロパガンダ目的で使用していたものである[27]
著名人

中根喜三郎海老名香葉子兄妹

高木敏子

サヘル・ローズ

漆原智良

脚注[脚注の使い方]
出典^ “『未来に伝えたい 100年前のニッポン人 ?ポーランド孤児救出の軌跡?』”. FNN (2020年6月17日). 2021年11月28日閲覧。
^ 下川耿史『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』河出書房新社、2003年11月30日、338頁。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 4309224075。  全国書誌番号:20522067
^ 『厚生統計月報』第1巻第7号,1947年10月, 72~77頁
^ 幸地努『沖縄の児童福祉の歩』私家版、1975、12頁。 
^ a b 逸見勝亮「第二次世界大戦後の日本における浮浪児・戦争孤児の歴史」『日本の教育史学:教育史学紀要』第37巻、教育史学会、1994年10月、99-115頁、CRID 1050282813948915456、hdl:2115/6130、ISSN 0386-8982。 
^ a b 山田勝美 著「第3章 戦争孤児問題の制度・法律の変遷」、浅井春夫、川満彰 編『戦争孤児たちの戦後史』 1巻、吉川弘文館、2020年8月1日、53頁。ISBN 978-4-642-06857-4。 
^ 山田「戦争孤児問題の制度・法律の変遷」pp.51, 53.
^ 藤井常文 著「第5章 戦中・戦後の児童養護施設の実体と実践―東京における養護施設を中心に―」、浅井春夫、川満彰 編『戦争孤児たちの戦後史』 1巻、吉川弘文館、2020年8月1日、85頁。ISBN 978-4-642-06857-4


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