インドではアメリカはイギリスと戦争の勝利には合意したが、植民地統治については交渉があった[37]。OWIが植民地からの自由を発信することは、インドでの反乱を誘発し、イギリスの立場を危うくすることになったし、またアメリカの黒人(アフリカ系アメリカ人)がアメリカの政策の偽善を指摘することにもなった[37]。 戦時情報局は非常に多彩な学者集団が集められた。政治学者のポール・ラインバーガー(Paul Linebarger)は、ジョンズ・ホプキンス大学で訓練を受け、心理戦のスペシャリストであり、文化を操作するにはまず文化を理解する必要が重要だと考え、極東部門の副長官にジョージ・テイラーを起用し、敵の戦意を研究し操作するため、海外戦意分析課に、ルース・ベネディクト(日本班チーフ)、ジョン・エンブリー、モーリス・オプラーといった人類学者など約30人の社会科学研究者が雇用された[6]。ベネディクトは日本班チーフとなり、『菊と刀』の基となる報告書「Japanese Behavior Patterns (日本人の行動パターン)」をまとめた[6]。 OWI協力者には、作家のハワード・ファスト、ジェイン・ジェイコブズ、SF作家マレイ・ラインスター、コードウェイナー・スミス (Paul Linebarger)、ジェイ・ベネット (Jay Bennett)、ハンフリー・コブ、アラン・クランストン、歴史学者のジョン・フェアバンク、オーウェン・ラティモア、アーサー・シュレジンジャー、映画監督ゴードン・パークス、脚本家ウォルド・ソルト[1] らがいる。 日系では、フランク・正三・馬場がおり、画家の石垣栄太郎は中国の抗日戦争を応援し、その妻でフェミニストの記者だった石垣綾子(マツイ・ハル
協力者
戦後ドリル工場に動員された女性
OWIに参加した作家、プロデューサー、俳優のなかにはソ連や共産主義を賛美するものもおり、アメリカ共産党の党員もいた[42]。
OWI太平洋作戦部長で中国学者のオーウェン・ラティモアは、のち副大統領ヘンリー・A・ウォレスに同行して1944年に中国とモンゴルを訪問するなどしたが、戦後になってソ連軍参謀本部情報局を離脱したアレクサンダー・バーミン将軍が、ラティモアがソ連の工作員である可能性を指摘した[43][44][45]。赤狩りの中心人物であったジョセフ・マッカーシーはラティモアをアメリカ政府内の親共産主義者として告発したが、本人の反論のほか、アチソン国務長官やラティモアと同じく中国学の権威であったフェアバンクらがラティモアを擁護した。