戦時情報局
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また237個のニュース映画16mmフィルムがつくられた[15]
映画

戦争情報局映画部 (OWI Bureau of Motion Pictures、BMP) はハリウッドの協力を得て、アメリカの戦争目的を前進させることが目指された。エルマー・デイビスは、エンターテインメント映画はプロパガンダ化されたことがわかりにくいため、大衆の精神にプロパガンダを注入するには最適であると考えていた[16]。連合軍の紹介した“Freedom fighters”や、石油燃料や食料備蓄など市民でも実施できるなどと唱道された[17]。戦争が長期化するにつれて、ハリウッドでの戦争情報局映画部の存在は大きくなっていき、1943年までにはパラマウント映画を除く全てのスタジオが統制下に置かれた[18]。戦争情報局映画部は個々の映画を連合軍の使命の名誉を推進するかどうかで審査した[19]

政府は検閲のまずさを十分に心得ており、映画部部長のローウェル・メレットもアメリカ映画製作配給業者協会(MPPDA)に「あなた方には政府がいい顔をしない映画を作る自由がある」と述べている[20]。しかし、その一方でメレットはプロデューサーの集まりの席上で「我々が見たい映画は何故戦わなければならないのか、我々の理想は何なのかをドラマチックに描いた作品だ。国民がこれらを理解しない限り、戦争は意味を失ってしまうだろう」とも語っている[21]。特に強調したのが「真実のアメリカを描いた映画をもっと、もっと沢山見たい。…皆さんも充分に承知しているものと信じるが、本物のアメリカ人は映画に出てくる平均的なアメリカ人よりも、もう少し優れた国民のはずだ」ということだった[22]。また、「映画が戦いの流血や撃ち合いの面をことさらに煽る」ことは歓迎せず、「戦いの基本的な問題やそれと同じように重要な市民生活の側面、そして勝利の後の平和の意義などをなおざりにしない」でほしいと方針を示した[23]

こうした要請に応えてレイディオ・キース・オーフィアム(RKO)はナチスに占領された村が自由を求めて闘う姿を描いた『自由への闘い(英語版)』(原題:This Land Is Mine)を、ワーナー・ブラザースはアメリカ大使のジョセフ・E・デイヴィス(英語版)を主人公にした『モスクワへの密使(英語版)』(原題:Mission to Moscow)を、20世紀フォックスは『ウィルソン』(原題:Wilson)をそれぞれ製作した[21]メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)は当初は真珠湾攻撃後の最初の作品として、ソ連を紹介するドキュメンタリー映画を製作するつもりであったが[22]、結局は国民的人気を博したプロ野球選手ルー・ゲーリッグ伝記映画打撃王』(原題:The Pride of the Yankees)を愛国心を高める目的で製作することに決めた[24]。戦争情報局によると、1942年3月から9月までの間だけでも何らかの形で戦争を描いた映画は国内外合わせて260本にのぼった[23]
海外での活動フィリピンで散布されたリーフレット

戦争情報局の海外担当部署は、国内の部署よりも反対が少なく、大きな成功を得た[25]

心理戦部 (Psychological Warfare Branch、PWB) は戦闘地域での敵軍や、連合軍基地付近の住民に対してプロパガンダを発信した[26]。第二次世界大戦中はリーフレットが一般的で、北アフリカイタリアドイツフィリピン日本の各地域で有用だった。対日本リーフレットでは1800万枚が散布され、1945年夏だけでも980万枚が散布された[27]。対イタリアリーフレットでは、「ムッソリーニとヒトラーのために死ぬか、イタリアと文明のために生きるかを決める時が来た」と書かれていた[28]

OWIは新聞、雑誌も利用し、ビクトリーという海外の雑誌は海外の連合国の市民とアメリカ市民とが戦争に協力するように運営された[29]。それは、アメリカの工業力とアメリカのライフスタイルの魅力を伝えるものであった[30]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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