戦争情報局ラジオ部 (The OWI Domestic Radio Bureau) は、ドイツ、日本、イタリアを扱った This is Our Enemy (1942)や、国内の戦意昂揚をめざした Uncle Sam、銃後(ホームフロント)についての Hasten the Day (1943秋)、NBCブルーネットワークの Chaplain Jim などを制作した。ラジオプロデューサーのノーマン・コーウィンは俳優のロバート・ヤングを起用して An American in England , An American in Russia , Passport for Adams を制作した。
1942年にはボイス・オブ・アメリカ (VOA) を設置した。VOAではアメリカ労働総同盟(アメリカン・フェデレーション・オブ・レーバー)や産業組織議会 (Congress of Industrial Organizations) などからも情報が提供された。
1942年から1943年にかけてOWIは、二つの写真機関を設置し、戦争初期の国内の交通移動、航空機工場や動員された働く女性の写真を記録した。また237個のニュース映画や16mmフィルムがつくられた[15]。 戦争情報局映画部 (OWI Bureau of Motion Pictures、BMP) はハリウッドの協力を得て、アメリカの戦争目的を前進させることが目指された。エルマー・デイビスは、エンターテインメント映画はプロパガンダ化されたことがわかりにくいため、大衆の精神にプロパガンダを注入するには最適であると考えていた[16]。連合軍の紹介した“Freedom fighters”や、石油燃料や食料備蓄など市民でも実施できるなどと唱道された[17]。戦争が長期化するにつれて、ハリウッドでの戦争情報局映画部の存在は大きくなっていき、1943年までにはパラマウント映画を除く全てのスタジオが統制下に置かれた[18]。戦争情報局映画部は個々の映画を連合軍の使命の名誉を推進するかどうかで審査した[19]。 政府は検閲のまずさを十分に心得ており、映画部部長のローウェル・メレットもアメリカ映画製作配給業者協会(MPPDA)に「あなた方には政府がいい顔をしない映画を作る自由がある」と述べている[20]。しかし、その一方でメレットはプロデューサーの集まりの席上で「我々が見たい映画は何故戦わなければならないのか、我々の理想は何なのかをドラマチックに描いた作品だ。国民がこれらを理解しない限り、戦争は意味を失ってしまうだろう」とも語っている[21]。特に強調したのが「真実のアメリカを描いた映画をもっと、もっと沢山見たい。…皆さんも充分に承知しているものと信じるが、本物のアメリカ人は映画に出てくる平均的なアメリカ人よりも、もう少し優れた国民のはずだ」ということだった[22]。また、「映画が戦いの流血や撃ち合いの面をことさらに煽る」ことは歓迎せず、「戦いの基本的な問題やそれと同じように重要な市民生活の側面、そして勝利の後の平和の意義などをなおざりにしない」でほしいと方針を示した[23]。 こうした要請に応えてレイディオ・キース・オーフィアム(RKO)はナチスに占領された村が自由を求めて闘う姿を描いた『自由への闘い
映画
海外での活動フィリピンで散布されたリーフレット