戦後民主主義
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貴族院議員の南原繁はこの理念を帝国議会憲法改正特別委員会において国連加盟の条件に兵力の保有が含まれている事、他国に縋って生き延びようとするのはある種の諦めではないか[4]。と疑問を呈した。また、同時進行で進められていた主権者としての天皇から象徴天皇への移行をどう考えるかの世論調査では85%が賛成とし、天皇の存在が国民に広く受け入れられている事を裏づけた。これらを背景として戦争放棄条項、象徴天皇制などを含んだ憲法改正草案要が元となって「憲法改正草案」が帝国議会で審議された。まずは枢密院で審議された後に衆議院に送られた。その後衆議院で改正案は修正可決され、貴族院の修正可決を経て1946年10月7日に衆議院で確定した。確定した改正案は天皇の裁可を得て日本国憲法として公布された。
新憲法への支持

当時の国民はこの新憲法をおおむね肯定的に受け入れた。それが現れているのが毎日新聞が1946年12月16日に行った世論調査であり、同調査では吉田政権の施策について問うていて、同調査が行った10項目のうち最も評価されたのが憲法改正であった。憲法改正を「成功」とする回答が35%で「大体よろし」としたのが57%だった。
戦後民主主義に対する見解

「戦後民主主義や近代立憲主義によって、日本人は共同体意識に根ざした良心を失い利己主義に走り、家父長制や純潔主義などの伝統文化も破壊された」との主張が保守的な論者から唱えられている。このような批判は、自由民主党が1955年11月に結党した際に綱領などで唱えたのを始め、1960年代には福田恆存ら保守系の人々の間で盛んに論じられた。

こうした論者は、戦後民主主義をしばしば「左翼」として批判する。確かに戦後民主主義は「左翼」と呼ばれる社会民主主義者共産主義者の支持を受けている。しかし、戦後民主主義の支持者は、必ずしも社民主義や共産主義に賛同しているわけではなく、自由主義を支持している者もいる。

文化防衛論』『果たし得ていない約束―私の中の二十五年』など、多くの評論で戦後民主主義を批判する三島由紀夫は、第二次世界大戦の敗戦により、それまでの「日本の連続的な文化的な価値、歴史的な価値、精神的な価値」のすべて一切が「悪い」ものと見なされて、「国民精神」(永い民族の歴史の中で日本人が培い、育ててきた伝統や文化の結晶)が一旦「御破算」となってしまい、それがその後多少は修正されたものの、すでに修正段階で「文化的価値」(国民精神)は、「政治的価値」(民主主義)よりも下位に置かれ、両者の間に「非常なギャップ」が出来てしまったとし、戦後民主主義から起こった近代的現象である大衆社会のことを、「全てを呑み尽くしてしまふ怪物のやうな恐ろしいもの」としている[5]。そして、戦後大衆社会において第一に優先される価値観は、「お金を儲けて毎日を楽しく暮らすこと」であり、そのためならば、自分の国の大事な文化や財産であろうが「つまらなければ片つ端から捨ててしまふ」ということになってしまうと三島は危惧し[5]、徐々に「国民精神」が侵食された大衆が「政治に関心を持つ」という「体裁のいいこと」に関わり、真剣に考えずに、インテリらしく見えるというような気持ちで日本社会党に投票してみたり、日本共産党が支持する美濃部亮吉を都知事にしてしまう危うさを指摘した[5]

また、より先鋭的な立場をとる新左翼は、平和主義や議会制民主主義といった戦後民主主義の価値観を攻撃する。特に1960年代後半から1970年代には、吉本隆明など反権威的な立場からの戦後民主主義批判が当時の若者から熱い支持を受けた。これらの新左翼がリードした学生運動の過激化の背景には、自由主義寄りの戦後民主主義と、それに迎合し穏健化した(と彼らがみなした)共産党や社会党への批判があった。

さらに、戦後民主主義を擁護する立場から「右翼」と称されて攻撃されている保守的意見にも、多様な見解があることを考慮する必要がある。革新勢力のみでなく自由主義者からも戦後民主主義が支持されたように、戦後日本の価値観変容から戦後民主主義のあり方に疑念を抱いているのは、先の新左翼や吉本の例からも見られる通り、何も保守派の者ばかりではない。またこれら保守論者が批判しているのが「民主主義」そのものではなく「“戦後”民主主義」であることにも注目すべきであろう。「戦後民主主義」という言葉の定義自体が革新勢力と保守勢力とで異なっている、とも言える。

また、戦後民主主義とは似て否なる概念として、戦後レジームがある。こちらの方は「レジーム」であるから「枠組」という意味であって、戦後民主主義と全部が重ならないわけではないが、日本国憲法と日米安保の両方をコインの裏表とする、戦後日本のおかれた(または選び取った)世界の中での日本の立ち位置を意味する。特徴は吉田茂の政治・外交路線であった軽武装・経済発展路線(吉田ドクトリン)である。こちらは、保守本流の価値観として改憲を事実上棚上げした池田内閣以降、確立していった。戦後の政治学の文脈でいう自民党内の「保守本流」とは、この吉田の選んだ路線を引き継いだ宏池会池田勇人を創設者として、前尾繁三郎-大平正芳-鈴木善幸-宮澤喜一へと至る系譜)を指しており、「保守本流」と戦後レジームは重なる。例えば戦後レジームの構築に戦後まもなくから関わってきた宮澤喜一などは有名な護憲派であったし、宏池会の系譜は基本的に護憲路線であった。その意味においては、戦後民主主義者と重なる部分も多かった。後述されている戦後民主主義の批判者は自らを保守と規定し、戦後民主主義者を「左翼」として批判するが、戦後レジームからの脱却を唱える人々の立場からすれば、この「戦後レジーム」すらも批判的に見なされるのが常である。ただし、繰り返しになるが「戦後民主主義」と「戦後レジーム」は似て非なる概念であり、多分に重なる部分があるとしても、その中心に位置するものは微妙に異なっている。

もともとは進歩的文化人・岩波文化人だった清水幾太郎は、戦後民主主義の価値体系は、戦前の治安維持法への復讐であり、丸山眞男がいう「悔恨共同体」の深層には、治安維持法への知識人の復讐感情「怨恨共同体」があったのだとする[6]。……戦後の「価値体系」、古い言い方では、戦後の「大義名分」、それは、「治安維持法への復讐」にあるような気が致します。是が非でも、天皇制を廃止して、共和制を実現しよう、是が非でも、資本主義を廃止して、社会主義や共産主義を実現しよう。これが、戦後思想の二大公理であるように思われます。

以下は、「戦後民主主義」に対する反対、批判的な立場の見解の例である。


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