戦国時代_(中国)
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宋の人民は長い間「宋の」と呼ばれるほどの暴政を受け恨んでいたため[10]、国のために戦わず、斉・魏・楚の連合軍にあっけなく敗れ、宋王偃は魏の温邑(現在の河南省温県)で殺され、宋は滅亡した[39][40][41]
斉への合従軍の侵攻 (前284年-前279年)
済西の戦い

この二強国時代は、突然終わりを告げた。滅ぼし、5国は危機感を募らせた。紀元前284年楽毅を大将とする燕・趙・韓・魏・楚の5カ国連合軍が侵攻した。斉の?王は田觸を将とし斉の全軍を率いた。斉軍主力は済水を渡河した。両軍は済水の西で決戦を行った。斉軍の士気は連年の戦争により、低くかった。兵士に死戦を行わせるために、?王は先祖の墓を掘って兵士を殺すと脅したが、さらに兵士の士気が低下した。その結果、合従軍が進攻した時田斉軍は一瞬で壊滅状態となるほどの惨敗を喫した。田觸は逃亡し、副将の田達は残兵を率いて王都の臨?に撤退した。斉軍の主力が壊滅したあと、楽毅は秦、韓の両軍を帰還させ、魏軍は宋の地を攻め、趙軍は河間を占領、燕軍は斉軍を追撃した[42][43][44]

?王は、国外へ逃亡した後、?に戻った。この時、楚の頃襄王は斉を救うことを名目に?歯を送りこんだ。?歯は?の?王を殺し、斉に占領されていた淮北を取った[45]。皮肉なことにかつての燕のように王がいない状態となった。

楽毅は臨?を攻略後、善政を敷き、軍事規律を肯定し、略奪を厳しく禁止、残酷な法律や過酷な税を廃止し、民衆の支持を集めた。その後、軍隊を分割して、斉軍を完全に排除し、斉国の占領を拡大した[46]。燕軍は僅か六ヶ月で斉の七十余りの城を占領し、?と即墨の両城だけが残った[47][48]紀元前283年、斉の大臣王孫賈らが?歯を殺し、?王の子の田法章を擁立し、襄王として即位した。襄王らは?籠城し、燕軍に対して必死に抵抗した。
即墨の戦い

即墨では、楽毅の返り討ちに遭い大夫が戦闘で死亡した。即墨の軍隊と民間人は、田単に抵抗するように導かれ、双方は数年間戦った。楽毅は攻撃せずに、即墨を包囲戦に持ち込んだ。即墨の兵士と民間人は、大夫の死後、斉の公族でもある田単を将軍に推薦し、燕軍に抵抗した。この即墨の攻防戦は、「即墨の戦い[49][50]と呼ばれた。

1年間、燕軍は?と即墨を包囲したが、落ちなかったために楽毅は攻城戦に切り替えた。燕軍を城から撤退させ九里離れたところに砦を築くようにするよう命じた。3年後も、2城は占領されなかった[51]
田単の復国
反間の計

紀元前279年、燕の昭王が死に、子の恵王が王位を継いだ。恵王は楽毅の事を太子時代から良く思っておらず、ここに付け込む隙があると見た田単は反間の計を用いた。燕に密偵を潜り込ませ、「即墨と?は今すぐにでも落とすことが出来る。楽毅がそれをしないのは、斉の人民を手なずけて自ら斉王になる望みがあるからだ」と流言を流し、恵王の耳に入るようにした。恵王はこれを信じ、楽毅を解任し、代わりに騎劫を将軍として送った。このまま燕へ帰れば誅殺されると思った楽毅は、趙へ亡命した[52]。騎劫は楽毅の戦略とは反対に、即墨への強制攻撃を命じた。しかし、斉の軍隊と民間人の抵抗が起きて、騎劫の攻撃は実を結ばなかった。

次に田単は城内の結束を促すよう考え、城内の者に食事のたびに家の庭で祖先を祭らせた。するとその供物を目当てに無数の鳥が集り、誰しも不気味な様子を怪しんだ。これを田単は「神の教えによるもの」と言い、「いずれ神の化身が現れて私の師となるであろう」と布告した。これを聞いたある兵士が「私が師になりましょうか」と冗談を言うと、田単は嘘と承知した上でその者を「神師」として強引に祭り上げ、自分はその指示に従うという姿勢を見せた。そして軍令の度にこの神の名を用いて人々を従わせた。

続いて「捕虜になると鼻そぎの刑に処されると恐れている」「城の中では城の外にある祖先の墓を荒らされないか恐れている」という偽情報を燕軍に流した。敵将・騎劫がその通りにして見せつけると、即墨の人々は燕軍への降伏を恐れ、祖先を辱められたことへの恨みから団結し、士気は大いに上がった[53]
火牛の陣

城内の人々の状況から、いよいよ出撃の時期が訪れたと判断した田単は、まず城兵を慰撫した。

次に兵を隠して城壁を女子供や老人に守らせ、あたかも城内が困窮しているように装い、燕軍へ降伏の使者を派遣。更に即墨の富豪を介して燕の将軍に対し「降伏しても妻や財産などに手を出さないほしい」との安堵の約束と金を渡した。これらのことにより燕軍は勝利を喜び、油断を深めていった[54]

そこで田単は千頭のを用意し、鮮やかな装飾を施した布を被せ、角には刀剣、尻尾には松明をそれぞれ括り付け、夜中に城壁に開けておいた穴からこれを引き連れた。そして、たいまつに火をつけ尻を焼かれ怒り狂う牛を敵陣に放った。燕軍はその奇怪な姿の牛の突進に驚き、角の剣でことごとく刺し殺された。また、5千の兵もこれに続いて無言のまま猛攻をかけ、更に民衆も銅鑼や鐘などで天地を鳴動させるかのように打ち鳴らし、混乱を煽った。そのため、燕軍は大混乱に陥り、騎劫も討ち取られた[55]

田単はこの勢いに乗じ、70余城全てを奪回した。
秦の一強国 (前274年-前236年)

斉の凋落により、中国は秦による一強国時代となる。昭襄王の時代に宰相の魏?白起将軍の活躍により、幾度となく勝利を収める。
遠交近攻

その時、魏より亡命してきた[56]范雎を登用した昭襄王は、その提言を次々と採用した。まず、魏?や親族の権力があまりにも大きくなっている現状を指摘され、魏?らを退ける進言を受け入れた。次に范雎から進言されたのが有名な遠交近攻策である。それまで近くの韓・魏を引き連れて、遠くの斉との戦いを行っていたのだが、これでは勝利しても得られるのは遠くの土地になり、守るのが難しくなってしまう。これに対して遠くの斉や燕と同盟して近くの韓・魏・趙を攻めれば、近くの土地を獲得できて、秦の領土として組み入れるのが容易になる[57]。この進言に感動した昭襄王は范雎を宰相とした。
白起の活躍

紀元前280年司馬錯に命じ、隴西から兵を出して蜀に出て、楚を討った(中国語版)。また、罪人を赦して南陽に移した。同年、白起に命じ、趙を討ち、代と光狼城を取った。

紀元前273年、白起と公孫胡昜が魏の華陽を攻め、華陽の戦いで韓・魏・の将軍を捕え、13万を斬首した。同年、趙将賈偃と戦い、その士卒2万を黄河に沈めた[58][59][60]

紀元前264年、韓の?城を攻め、?城の戦いで5城を落とし、5万を斬首した[61]
長平の戦い

紀元前262年、白起は再び韓を攻めて野王を取り、上党郡と韓の本土が切断され飛び地となった。

紀元前260年、昭襄王は左庶長王?に命じて韓を討ち、韓の上党の地を取った。しかし、上党の民は秦ではなく趙に降ったため、趙は兵を出し長平に駐屯した。4月、王?は趙軍を攻めたが、趙の将軍が名将廉頗だったため討つことはできなかった。趙軍は塁壁を築いて守った。秦軍はそれを攻めたが廉頗はますます塁壁を高くして守り、何度挑発しても応じなかった[62]

范雎は一計を案じ、趙の孝成王に逆宣伝させ廉頗を更迭させた。趙は廉頗を更迭し、趙括を将軍とした。秦はこれを聞いて、ひそかに白起を上将軍とし、王?を副将として、軍中に「武安君が軍を指揮するのをもらす者があれば斬罪にする」と命令した。

趙括は着任すると、すぐに兵を進め秦軍を討った。白起は敗走すると見せかけ伏兵を潜ませた。趙軍は勝ちに乗じて追撃したが、秦の伏兵により趙軍と趙の塁壁の間を遮断して、糧道を絶たれた。

9月、趙軍の絶食は46日間に及び、互いに互いを殺しあって人肉を食う惨状だった。趙括は精兵とともに白兵戦を演じ打開を図ったが、秦はこれを射て趙括を殺した。趙軍40万は白起に降服したが、白起は「今回の戦いのきっかけになった上党の邑民は趙に帰服した。趙の士卒も、いつ心変わりするかわからない。皆殺しにしなければ、叛乱を起すだろう」と考えた。既に秦軍の兵糧も乏しく、大量の捕虜を養うだけの量がなかったことも白起に叛乱への不安を抱かせた。


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