春秋時代には国の祭祀を絶つと国の祖先から呪われるという考えから、国を占領しても完全に滅ぼしてしまうことはそれほど多くなく、また滅びても復興することがよくあった。戦国時代に入ると容赦がなくなり、戦争に負けることは国の滅亡に直接繋がった。そのような弱肉強食の世界で次第に7つの大国へ収斂されていった。その7つの国を戦国七雄と呼ぶ。春秋時代には名目的には周王の権威も残っていたが、戦国時代になると七雄の君主がそれぞれ「王」を称するようになり(ただし、楚の君主は以前から王であった)、周王の権威は失われた。
戦国時代初期の諸侯国は数十国あり、その中で斉・晋・楚・越の4国の国力が強く、天下は4分の勢となっている。
春秋時代の長期的な戦争により、晋の国君は春秋末期になると傀儡となり、卿や大夫が政治の実権を掌握することになった。春秋末期、その中でも六卿の智氏・范氏・中行氏・韓氏・趙氏・魏氏が有力であった。范氏と中行氏が滅ぼされる[11]と封地は他四家で分配された[12]。智氏の当主智瑶が紀元前455年に韓氏・魏氏の両家と趙氏を滅ぼそうとして、趙無恤の本拠晋陽を水攻めにしたが[13][14][15]、韓氏・魏氏の裏切りにあった。紀元前453年、智氏が滅亡した[16]。智氏の土地は配分された。また、三家は晋公室の土地と人民も配分した[17]。これを三家分晋という。
斉では卿族で小国陳の亡命公子の陳完の子孫の田恒が鮑氏と連合して欒氏と高氏から政権を奪い取り滅ぼした[18][19]。遂には国君を追放して自らが国君となった[20][21][22]。
燕は国力が上昇し、秦は中興した。弱小な諸侯国は併呑されるか附庸国となった。戦国時代中期には主要な大諸侯國は
韓(紀元前403年 - 紀元前230年)
趙(紀元前403年 - 紀元前228年)
魏(紀元前403年 - 紀元前225年)
楚(? - 紀元前223年)
燕(紀元前1100年頃 - 紀元前222年)
斉(紀元前386年 - 紀元前221年)
秦(? - 紀元前206年)
の7国となった。これを戦国七雄という。
小国としては東周・宋・衛・中山・魯・滕・?・費(中国語版)等が存在していて、宋や中山といった国々も王号を唱えており[8]、諸国における重要度も高かったという指摘もされている。秦の附庸国となった衛を除き、戦国七雄によって併呑された。 戦国時代の初期に覇権を握ったのは、晋から分離したうちの一国の魏である。周王朝より諸侯として正式に認められたときの魏の文侯は積極的に人材を求め、李克・呉起などを登用して中山国の都を陥落させるなど、魏を最強国とした。子の武侯の時代にも覇権は続き、さらにその子の恵王の時代には、諸侯の間で初めて王の称号を使うなど、強勢を誇った。 魏が強勢となれたのは、魏の支配領域が周代より文化の中心地とされた中原の中央であり、最も開発が進んだ地域であったからであった。それは一方では周辺諸国からの侵攻を受けやすいということでもあり、開発の余地が無いということでもあった。後方に広大な未開発地帯を持つ斉や秦などが台頭してくると、魏は覇権の座から滑り落ちることとなる。 文侯は魏の歴代の君主の中でも一二を争う名君で、積極的に人材を集め、魏の国力を上昇させていた。文侯が呉起を任用するかどうかを家臣の李克に下問したところ、李克は「呉起は貪欲で好色ですが、軍事にかけては名将司馬穰苴も敵いません」と答え、文侯は呉起を任用する事に決めた[23][24]。 呉起は軍中にある時は兵士と同じ物を食べ、同じ所に寝て、兵士の中に傷が膿んだ者があると膿を自分の口で吸い出してやった。ある時に呉起が兵士の膿を吸い出してやると、その母が嘆き悲しんだ。将軍がじきじきにあんな事をやってくだされているのに、何故泣くのだと聞かれると「あの子の父親は将軍に膿を吸っていただいて、感激して命もいらずと敵に突撃し戦死しました。あの子もきっとそうなるだろうと嘆いていたのです」と答えたと言う[注 7][25]。この逸話(「吮疽の仁」と呼ばれている)の示すように兵士たちは呉起の行動に感激し、呉起に心服して命も惜しまなかったため、この軍は圧倒的な強さを見せた。 呉起は軍の指揮を執り秦を討ち、5つの城を奪った。この功績により西河郡守に任じられ、秦・韓を牽制した[26][27]。 紀元前354年、魏・衛・宋の三国連合軍は趙の国都の邯鄲に侵攻した。趙は門を閉じて守りを固め、斉に救いを求める使者を送った。連合軍は邯鄲を包囲し、一気に趙を滅ぼそうとした。斉の威王は趙の危機を知り、救援のために出兵しようとした。しかし将軍の段干朋
概要
魏の覇権 (前403年-前354年)
魏の呉起改革
桂陵・馬陵の戦い (前354年-前342年)
桂陵の戦い詳細は「桂陵の戦い」を参照
斉の出兵