戦国時代_(中国)
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白起は趙軍を偽って連れ出し、40万の士卒を穴埋めにして殺した[注 15]。この戦いが「長平の戦い」である。
白起の死

しかし、本国にあった宰相范雎が、長平の戦いでの白起の活躍を自らの地位を脅かすものであるとして警戒し、さらに趙の首都邯鄲に攻め込もうとする白起を押しとどめ、わずかな条件で趙と和議を結んだ。紀元前259年、秦は、王陵を起用して邯鄲を包囲し、翌紀元前258年には増派もして、さらに指揮官を王?に交代させたが、趙の援軍として現れた魏の信陵君・楚の春申君に大敗北(中国語版)を喫した。この危機を打開するために白起に出兵するよう命令が下るが、白起は一連の范雎の行動に不信感を抱き、病と称して出仕を拒んだ。『戦国策』によれば、この時慌てた范雎と国王が自ら指揮を乞うも、白起は趙が国力を回復して討ち難いとして応えなかったうえ、王?の敗戦を「だから言ったことではない」と批判したという。これがさらに立場を悪くし、紀元前257年、ついに白起は昭襄王によって自害させられた
周の滅亡

紀元前256年、昭襄王は張唐に命じて国として続いていたを討ち、国都を落とした。同年12月、趙の邯鄲を攻略中の王?に増兵を行ったが、邯鄲を落とすことができずに退き、汾城郊外の軍に逃げ込んでしまった。そこで鄭にいた張唐に趙の攻略を命じ、趙の寧新中の地を抜くことに成功した。同じころ楊摎に命じて韓を討ち、韓の陽城・負黍の地を取った。

この年に、赧王と王室の分家の西周の文公(当時の周は、分家である周公家が東西に分裂していた)が秦と敵対し、諸侯と結んで秦を討った。昭襄王は楊摎に命じて西周を討った。西周の文公は降伏して秦に投じ頓首して罪を謝し、領地の邑と人民を秦に献じ、そのすぐ後に赧王は崩じた。邑と人民を失った周は実質的に滅んだ。翌紀元前255年に、西周の民は残っていた東周君の領地に逃げ、周に伝わった九鼎は秦に接収された。ここに800年続いた周は滅亡した[63]。残った東周君も、紀元前249年に呂不韋によって攻め滅ぼされた[64][65]
六国の滅亡と統一 (前236年-前221年)

荘襄王は在位僅か3年でこの世を去る。紀元前247年に政が13歳で秦王に即位する[66]。のちの始皇帝である。政は、李斯の政策の下で法治主義・権力集中をさらに進め、外征面では王翦王賁親子や李信などを起用した。この間の紀元前240年に国として続いていたを討ち、国都を落とした。しかし、理由は不明であるが衛の君主は韓の旧領である野王に移されて、名目上とは言え国は残されている。
韓と趙の滅亡
?攻略

紀元前236年?を落とすため王翦総大将桓?楊端和副将として遠征軍を派遣。9城を取る。王翦は一人で閼与などを攻める。それから、皆兵をあわせて一軍とした。王翦が将軍になると18日間で軍中の斗食以下の功労のない者を帰らせ、軍をおよそ5分の1に減らし精鋭揃いに編成した。そして、それまで落とせなかった?などを落とした[注 16][67][68][69]
平陽の戦い

紀元前234年、桓?は平陽に直行した。趙は扈輒を将として平陽を救援に向かわせ、秦軍と戦った。秦軍は十万の趙兵を平陽の城外で斬首し、趙の将である扈輒を討ち取った[70][71][72]

同年、秦軍が邯鄲に迫り趙の幽繆王は北部の国境の防衛を担っていた名将の李牧に南下し趙の全軍を率いて秦軍を攻撃することを命じた。

紀元前233年、桓?は再び出兵し宜安・平陽・武城の3城を取り、再び趙軍を破りその将を討ち取った[73]。この2戦で趙は10万以上の兵を失った[74]
肥下の戦い

同年、李牧率いる趙軍と秦軍は宜安付近で対峙した。激しい戦いの末に、秦軍は大敗した。桓?の率いる秦軍のうち少数は包囲から脱し、秦国へ退却した。桓?は敗走し、一説では李牧に討たれたとされる[75]。趙は秦に占領されていた土地を取り戻し、李牧は武安君に封じられた[76][77][78][79]
番吾の戦い

紀元前232年、秦は兵を大挙し、趙に侵攻した。軍は?城に到着し、その後太原に到着した。秦軍は狼孟番吾を占領したが、李牧が秦軍を撃破した[80]。さらに李牧は秦からの国境まで領土を奪還した[81]
韓攻略戦

韓は7国の中で最も弱く、強い秦と国境を接していた。戦国時代の初期に秦による襲撃を受け続けていた。将軍の桓?や王翦を派遣して、趙を攻撃するまで続いた。紀元前230年内史騰を大将として韓を攻めた[82]。韓は陽?が陥落して韓王安は捕虜となった[83][84]。韓は滅亡した[85][86]。韓の国土は秦の潁川郡となった[87]これにより、韓の民は抵抗の失敗による恐ろしい結果から救われた。
趙攻略戦

紀元前229年、秦の王翦楊端和羌?が趙の旱魃地震災害[88][89][90]につけこみ、大軍を以て趙を攻め、王翦が井?を降した[91]。そのため、趙は李牧と司馬尚司馬?の父)に応戦させた。苦戦した秦は李牧を排除するため、幽繆王の奸臣郭開に賄賂を送り、趙王と李牧との離間を画策した。郭開は趙王に「李牧と司馬尚が謀反を企てている」と讒言した。

趙の軍事を掌握し功名の高い李牧を内心恐れていた幽繆王はこれを疑い、郭開の言を聞き入れ、李牧を更迭しようとした。だが、李牧は王命を拒んだため、幽繆王によって密かに捕らえられて誅殺され、司馬尚も解任・更迭された[92][93]

李牧の死後、趙軍は趙葱と斉将顔聚が指揮を執る事になったが、彼らは間もなく王翦に大敗し、趙葱は戦死し、大勢の趙兵が殺害された[94]

紀元前228年、国都邯鄲が落ちた[95]


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