戦国時代_(中国)
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東周を同盟に引き込んで魏将の公孫喜が大将となって、伊闕で秦軍と対峙した[32][33]。戦闘の中、秦軍の兵力は韓・魏軍の半分以下であった。連合軍は韓軍が最も弱く、魏軍が主攻を担うことを希望した。しかし、魏軍は韓軍の精鋭部隊に頼り、韓軍が先陣を切ることを希望した。秦軍の主将の白起は、韓と魏の連合軍の共同力の弱く、互いが先陣を切る気がなく推し合っている弱点を利用した。しかし、魏軍に対して兵力を集中させ、猛攻を仕掛けた。魏軍は戦敗し、その後韓軍も戦敗し、敗走した。秦軍は追撃し、大勝した。伊闕の戦いで秦軍は敵兵24万を斬首して、伊闕と五つの土城を得、総大将の公孫喜は捕虜となった[34]。白起はこの功により国尉となった[32]

同年,白起は韓・魏の伊闕の戦いの惨敗を利用して、兵を率いて黄河を渡河して、安邑(現在の山西省運城市夏県の北西)より東側の乾河などの広い領土を占領した[35][36][37]
?・郢の戦い

紀元前292年、白起と司馬錯が魏を攻め、大小61城を落とした。紀元前278年を攻め、?・郢の戦いで楚の首都を落とし、南郡を置いた[38]。このため、楚は陳に遷都した。
斉秦互帝「斉秦互帝」も参照

紀元前286年、東の斉・西の秦の二強国時代を作る。この時に秦の昭襄王は斉の?王と共に王の上の称号である帝の称号を使うことに決めた[9]

その時、蘇代が斉に入り?王に対し「今帝位を称しても、各国は強大な秦になびくだけなので、帝位を称さずに王位を称して、桀宋(宋の康王暴君だったために名声が低く、かつてのになぞらえ桀宋と呼ばれていた)を討てば名声が高まるでしょう」と説いたため、東帝を称すのを止めた[10]
宋の滅亡

紀元前286年、宋で内乱が発生し、斉の?王が将軍の韓aを派遣した。宋の人民は長い間「宋の」と呼ばれるほどの暴政を受け恨んでいたため[10]、国のために戦わず、斉・魏・楚の連合軍にあっけなく敗れ、宋王偃は魏の温邑(現在の河南省温県)で殺され、宋は滅亡した[39][40][41]
斉への合従軍の侵攻 (前284年-前279年)
済西の戦い

この二強国時代は、突然終わりを告げた。滅ぼし、5国は危機感を募らせた。紀元前284年楽毅を大将とする燕・趙・韓・魏・楚の5カ国連合軍が侵攻した。斉の?王は田觸を将とし斉の全軍を率いた。斉軍主力は済水を渡河した。両軍は済水の西で決戦を行った。斉軍の士気は連年の戦争により、低くかった。兵士に死戦を行わせるために、?王は先祖の墓を掘って兵士を殺すと脅したが、さらに兵士の士気が低下した。その結果、合従軍が進攻した時田斉軍は一瞬で壊滅状態となるほどの惨敗を喫した。田觸は逃亡し、副将の田達は残兵を率いて王都の臨?に撤退した。斉軍の主力が壊滅したあと、楽毅は秦、韓の両軍を帰還させ、魏軍は宋の地を攻め、趙軍は河間を占領、燕軍は斉軍を追撃した[42][43][44]

?王は、国外へ逃亡した後、?に戻った。この時、楚の頃襄王は斉を救うことを名目に?歯を送りこんだ。?歯は?の?王を殺し、斉に占領されていた淮北を取った[45]。皮肉なことにかつての燕のように王がいない状態となった。

楽毅は臨?を攻略後、善政を敷き、軍事規律を肯定し、略奪を厳しく禁止、残酷な法律や過酷な税を廃止し、民衆の支持を集めた。その後、軍隊を分割して、斉軍を完全に排除し、斉国の占領を拡大した[46]。燕軍は僅か六ヶ月で斉の七十余りの城を占領し、?と即墨の両城だけが残った[47][48]紀元前283年、斉の大臣王孫賈らが?歯を殺し、?王の子の田法章を擁立し、襄王として即位した。襄王らは?籠城し、燕軍に対して必死に抵抗した。
即墨の戦い

即墨では、楽毅の返り討ちに遭い大夫が戦闘で死亡した。即墨の軍隊と民間人は、田単に抵抗するように導かれ、双方は数年間戦った。楽毅は攻撃せずに、即墨を包囲戦に持ち込んだ。即墨の兵士と民間人は、大夫の死後、斉の公族でもある田単を将軍に推薦し、燕軍に抵抗した。この即墨の攻防戦は、「即墨の戦い[49][50]と呼ばれた。

1年間、燕軍は?と即墨を包囲したが、落ちなかったために楽毅は攻城戦に切り替えた。燕軍を城から撤退させ九里離れたところに砦を築くようにするよう命じた。3年後も、2城は占領されなかった[51]
田単の復国
反間の計

紀元前279年、燕の昭王が死に、子の恵王が王位を継いだ。恵王は楽毅の事を太子時代から良く思っておらず、ここに付け込む隙があると見た田単は反間の計を用いた。燕に密偵を潜り込ませ、「即墨と?は今すぐにでも落とすことが出来る。楽毅がそれをしないのは、斉の人民を手なずけて自ら斉王になる望みがあるからだ」と流言を流し、恵王の耳に入るようにした。恵王はこれを信じ、楽毅を解任し、代わりに騎劫を将軍として送った。このまま燕へ帰れば誅殺されると思った楽毅は、趙へ亡命した[52]。騎劫は楽毅の戦略とは反対に、即墨への強制攻撃を命じた。しかし、斉の軍隊と民間人の抵抗が起きて、騎劫の攻撃は実を結ばなかった。

次に田単は城内の結束を促すよう考え、城内の者に食事のたびに家の庭で祖先を祭らせた。するとその供物を目当てに無数の鳥が集り、誰しも不気味な様子を怪しんだ。これを田単は「神の教えによるもの」と言い、「いずれ神の化身が現れて私の師となるであろう」と布告した。これを聞いたある兵士が「私が師になりましょうか」と冗談を言うと、田単は嘘と承知した上でその者を「神師」として強引に祭り上げ、自分はその指示に従うという姿勢を見せた。そして軍令の度にこの神の名を用いて人々を従わせた。

続いて「捕虜になると鼻そぎの刑に処されると恐れている」「城の中では城の外にある祖先の墓を荒らされないか恐れている」という偽情報を燕軍に流した。敵将・騎劫がその通りにして見せつけると、即墨の人々は燕軍への降伏を恐れ、祖先を辱められたことへの恨みから団結し、士気は大いに上がった[53]
火牛の陣

城内の人々の状況から、いよいよ出撃の時期が訪れたと判断した田単は、まず城兵を慰撫した。

次に兵を隠して城壁を女子供や老人に守らせ、あたかも城内が困窮しているように装い、燕軍へ降伏の使者を派遣。更に即墨の富豪を介して燕の将軍に対し「降伏しても妻や財産などに手を出さないほしい」との安堵の約束と金を渡した。これらのことにより燕軍は勝利を喜び、油断を深めていった[54]

そこで田単は千頭のを用意し、鮮やかな装飾を施した布を被せ、角には刀剣、尻尾には松明をそれぞれ括り付け、夜中に城壁に開けておいた穴からこれを引き連れた。そして、たいまつに火をつけ尻を焼かれ怒り狂う牛を敵陣に放った。燕軍はその奇怪な姿の牛の突進に驚き、角の剣でことごとく刺し殺された。また、5千の兵もこれに続いて無言のまま猛攻をかけ、更に民衆も銅鑼や鐘などで天地を鳴動させるかのように打ち鳴らし、混乱を煽った。そのため、燕軍は大混乱に陥り、騎劫も討ち取られた[55]

田単はこの勢いに乗じ、70余城全てを奪回した。
秦の一強国 (前274年-前236年)

斉の凋落により、中国は秦による一強国時代となる。昭襄王の時代に宰相の魏?白起将軍の活躍により、幾度となく勝利を収める。
遠交近攻

その時、魏より亡命してきた[56]范雎を登用した昭襄王は、その提言を次々と採用した。


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