戦国時代_(中国)
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まず、民衆に法をしっかりと執行することを信用させるために、三丈[注 12]もの長さの木を都である雍の南門に植え、この木を北門に移せば十金を与えようと布告した。しかし、民衆はこれを怪しんで、木を移そうとしなかった。そこで、賞金を五十金にした。すると、ある人物が木を北門に移したので、公孫鞅は布告通りに、この人物に五十金を与えた。こういったことで、まずは変法への信頼を得ることができた。

しかし、最初は新法も成果が上がらず、民衆からも不満の声が揚がったが公孫鞅は意に介さなかった。公孫鞅は法がきちんと守られていないと考えた。孝公13年(紀元前349年)、太子の?駟(えいし)(後の恵文王)の(後見役)である公子虔(中国語版)が法を破ったのでこれを処罰する事を孝公に願い出た。公子虔を鼻削ぎの刑に処し、また教育係の公孫賈を額への黥刑に処し、さらにもう一人の太子侍従の祝懽を死刑に処した。このために公子虔・公孫賈の両人は恥じて外出しなくなり、公孫鞅を憎悪したという。この後は全ての人が法を守った。

そうすると法の効能が出始め、10年もすると田畑は見事に開墾され、兵士は精強になり、人民の暮らしは豊かになり、道に物が落ちててもこれを自分の物にしようとする者はいなくなった。はじめ不満を漏らしていた民衆たちも手のひらを返したように賞賛の声を揚げたが、公孫鞅は「世を乱す輩」として、容赦なく辺境の地へ流した。これにより、法に口出しする者はいなくなり「変法」は成功を収める。
第二次変法

紀元前354年、元里の役(中国語版)

紀元前353年桂陵の戦いで魏が斉に大敗すると、紀元前352年には変法で蓄えられた力を使い秦は魏に侵攻し、城市を奪った(安邑・固陽の役(中国語版))。同年、この功績で公孫鞅は大良造に任命された。

紀元前350年、秦は雍から咸陽へ遷都した。

この年に公孫鞅はさらに変法を行い、法家思想による君主独裁権の確立を狙った。今回の主な内容は以下の通り。

父子兄弟が一つの家に住むことを禁じる。

全国の集落をに分け[注 13]、それぞれに令(長官)、丞(補佐)を置き、中央集権化を徹底する。

井田を廃し田地の区画整理を行う。

度量衡の統一。[注 14]

秦では父子兄弟が一つの家に住んでいたが、中原諸国から見るとこれは野蛮な風習とされていた。一番目の法は野蛮な風習を改めると共に、第一次変法で分家を推奨したのと同じく戸数を増やし、旧地にとどまりづらくして未開地を開拓するよう促す意味があったと思われる。二度の変法によって秦はますます強大になった。

紀元前341年馬陵の戦い孫?によって魏の?涓が敗死すると、紀元前340年には魏へ侵攻し、自ら兵を率いて討伐した(呉城の役(中国語版))。またかつて親友であった魏の総大将である公子?(中国語版)を欺いて招き、これを捕虜にして魏軍を打ち破り黄河以西の土地を奪った。危険を感じた魏は首都を安邑(現在の山西省夏県)から東の大梁(現在の開封市)に遷都し、恵王は「あの時の公叔?の言葉に従わなかったために、このような事になってしまった…」と大いに悔やんだという。

この功績により公孫鞅は商・於という土地の15邑に封ぜられた。これより商鞅と呼ばれる。
斉と秦の覇権 (前342年-前284年)
函谷関の戦い

紀元前318年公孫衍は魏・合従軍を率い、更に義渠にも秦を攻撃する様持ちかけ秦に侵攻した。合従軍の総大将は楚の懐王が努めた。しかし、合従軍の5国はそれぞれの利害のため足並みが揃わず、実際に出兵したのは魏・趙・韓の3国と義渠のみであった。合従軍は函谷関、義渠は李帛(現在の甘粛省天水市の東)を攻撃したが、合従軍と義渠は秦軍によって撃破された[30]

紀元前317年、秦は庶長の樗里疾率いる秦軍が函谷関から打って出て、韓趙魏の軍に反撃した。趙・韓軍を修魚で大敗させ、韓将の申差は捕虜とした。合従軍の8万2千人が斬首された[31]
斉破燕の戦い

紀元前316年、燕王?は王位を子之に譲った。紀元前314年、燕の将軍の市被が太子平を擁して子之を攻撃し、宮殿を包囲した。子之の軍が市被を撃破すると、市被は態度をひるがえして太子平を攻撃し、市被は戦死した。この内乱により燕は荒廃し、これを機とみた孟子の献策で宣王が将軍の匡章を派遣して燕を攻撃した。国都が陥落して、燕王?は殺害され、子之は逃亡した。後に捕らえられて殺害された。斉軍による略奪により燕の人民は反乱を起こした。
伊闕の戦い

紀元前293年、魏?の推薦により白起は左更となった。同年、韓と魏は度重なる秦の侵攻に危機感を募らせ、同盟を組んだ[32]東周を同盟に引き込んで魏将の公孫喜が大将となって、伊闕で秦軍と対峙した[32][33]。戦闘の中、秦軍の兵力は韓・魏軍の半分以下であった。連合軍は韓軍が最も弱く、魏軍が主攻を担うことを希望した。しかし、魏軍は韓軍の精鋭部隊に頼り、韓軍が先陣を切ることを希望した。秦軍の主将の白起は、韓と魏の連合軍の共同力の弱く、互いが先陣を切る気がなく推し合っている弱点を利用した。しかし、魏軍に対して兵力を集中させ、猛攻を仕掛けた。魏軍は戦敗し、その後韓軍も戦敗し、敗走した。秦軍は追撃し、大勝した。伊闕の戦いで秦軍は敵兵24万を斬首して、伊闕と五つの土城を得、総大将の公孫喜は捕虜となった[34]。白起はこの功により国尉となった[32]

同年,白起は韓・魏の伊闕の戦いの惨敗を利用して、兵を率いて黄河を渡河して、安邑(現在の山西省運城市夏県の北西)より東側の乾河などの広い領土を占領した[35][36][37]
?・郢の戦い

紀元前292年、白起と司馬錯が魏を攻め、大小61城を落とした。紀元前278年を攻め、?・郢の戦いで楚の首都を落とし、南郡を置いた[38]。このため、楚は陳に遷都した。
斉秦互帝「斉秦互帝」も参照

紀元前286年、東の斉・西の秦の二強国時代を作る。この時に秦の昭襄王は斉の?王と共に王の上の称号である帝の称号を使うことに決めた[9]

その時、蘇代が斉に入り?王に対し「今帝位を称しても、各国は強大な秦になびくだけなので、帝位を称さずに王位を称して、桀宋(宋の康王暴君だったために名声が低く、かつてのになぞらえ桀宋と呼ばれていた)を討てば名声が高まるでしょう」と説いたため、東帝を称すのを止めた[10]
宋の滅亡

紀元前286年、宋で内乱が発生し、斉の?王が将軍の韓aを派遣した。宋の人民は長い間「宋の」と呼ばれるほどの暴政を受け恨んでいたため[10]、国のために戦わず、斉・魏・楚の連合軍にあっけなく敗れ、宋王偃は魏の温邑(現在の河南省温県)で殺され、宋は滅亡した[39][40][41]
斉への合従軍の侵攻 (前284年-前279年)
済西の戦い

この二強国時代は、突然終わりを告げた。滅ぼし、5国は危機感を募らせた。紀元前284年楽毅を大将とする燕・趙・韓・魏・楚の5カ国連合軍が侵攻した。斉の?王は田觸を将とし斉の全軍を率いた。


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