戦国時代_(中国)
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威王は提案を採用し、趙と魏の両軍が一年以上膠着状態となり邯鄲城が落ちたときのみ、田忌(中国語版)を総大将、孫?を軍師とした斉軍主力を率いて趙を支援することを決めた[28]
孫?の策略

初めに田忌は邯鄲で魏軍の主力と決戦して邯鄲の包囲を解く作戦を提案した。しかし、孫?は否とした。「絡んだ紐を解く時は無闇に引っ張るものではなく、喧嘩を止めさせる時は殴り合いに加わらないものです」と言った。そして斬新で実行可能な方法、「批亢搗虚」と「疾走大梁」を提案した。「批亢搗虚」とは要所を突き、虚を突いて、形勢を崩すことである。「疾走大梁」とは迅雷の速さで魏の国都の大梁を攻めて魏の兵糧の輸送を止める。そうすると魏軍は必ず自軍を救うため、自ずと邯鄲の包囲を解くはずである。そして斉軍は魏軍の疲労を利用して魏軍を一気に破るということである。
?涓、策略に嵌る

田忌は孫?の「批亢搗虚」の策を採用し斉軍主力を大梁に向かわせた。この重要な瞬間に、邯鄲城は落とされたが魏軍の少数の兵力を邯鄲に置いて、?涓は主力を率いて大梁に向かった。しかし同時に斉軍は桂陵に潜伏し、魏軍の追撃の準備をした。魏軍は長期の国外の戦闘により、疲弊が露わになっていた。加えて、長距離で急速な行軍により、士気は下がった。斉軍と魏軍は一戦を交えたが、魏軍は大敗し、総大将?涓は生け捕りとなった。結果的に魏軍の包囲は解けた。「批亢搗虚」は桂陵の戦いで実際に運用され、後世では「囲魏救趙」と呼ばれる策略となった。
襄陵の戦い

しかし、紀元前352年、魏は韓と盟を結び、斉の襄陵城(現在の河南省商丘市?県)を包囲し、斉軍はこの戦で大敗した。斉の威王は楚に調停を依頼した。秦は桂陵の戦いの際に、魏を攻めていて斉と和睦しなければならなくなった。結果、紀元前351年、魏は邯鄲を趙に返還し、斉と魏の戦争は収束した。しかしこれは一時的に過ぎなかった。
馬陵の戦い
戦い

紀元前342年、孫?は魏の領内に侵攻した斉軍に撤退を命じた。退却に際し、初日は露営地に十万人分のを作らせ、翌日は五万人分の竈を、その次の日は二万人分の竈を作るように命じた。斉軍を追撃する魏軍を指揮する?涓は、竈の数が減っているとの報告を受け「戦意の低い斉軍は、脱走兵が続出しているのだろう」と考えた。そこで?涓は一刻も早く斉軍を捕捉して撃破しようと考え、歩兵部隊を残して騎兵隊のみを率い、昼夜兼行で急行した。

孫?は魏軍の進行速度から、夕方ごろに狭隘な馬陵(現在の山東省臨沂市?城県)の地に至るだろうと予測した。そこで馬陵の街道脇の大樹の木肌を削り、白木に墨で「?涓この樹下に死す」と大書し、周囲にを持たせた一万の兵を伏せた。伏兵には、夕闇の中で火がともるのが見えたら、その火めがけて一斉に箭を放つように命令した。果たして魏軍は日没後に馬陵に到達し、指揮官の?涓は道端の大木になにやら字が記されているのを見つけたが、すでにあたりは暗くてよく見えない。そこで松明を持ってこさせ、火をつけて字を読もうとした瞬間、周りから一斉に矢が飛んできた。?涓は満身に無数の矢を受け「遂に豎子の名を成せり(あの小僧に、名を挙げさせてしまったか)」と叫んで絶命した[29]。将を討たれた魏軍は混乱に陥って大敗し、太子申(中国語版)は捕虜となった[29][注 8]
事後

斉軍の司令官として戦功を上げて凱旋した田忌であったが、宰相鄒忌の讒言によって威王に叛意を疑われてそのままに亡命することとなった。

名将の?涓を失った魏はこの戦いをさかいに国力が衰微し始め、秦の侵略を防ぎきれなくなってのちに魏の恵王は韓の昭侯とともに斉に従属することになる。

孫?もこの戦いで復讐を終え、歴史上から姿を消した。一説によると彼は兵法書を残したとされている。
改革
楚・呉起改革

南のは、魏での権力争いに敗れて亡命してきた呉起を迎え入れて令尹(宰相)に抜擢し法家の思想を基とした国政改革に乗り出す。楚は宗族の数が他の国と比べて多く、王権は強くなかった。また領地は広かったが人のいない土地が多く、官職の数が多かった。これに呉起は、法遵守の徹底・不要な官職の廃止などを行い、これにより浮いた国費で兵を養った。また領主の権利を三代で王に返上する法を定め、民衆、特に農民層を重視した政策を取った。これらにより富国強兵・王権強化を成し遂げ、南は百越を平らげ、北は陳・蔡の二国を併合して三晋を撃破、西は秦を攻めるほどの強盛国家にした。この事から呉起は法家の元祖と見なされる事もある(ただし管仲や伝説の太公望も、その政治手法は法家的とされ、時代的には古い)。しかしその裏では権限を削られた貴族たちの強い恨みが呉起に向けられ、呉起もそれを察知していた。呉起が無事なのは悼王の寵愛があればこそだが、悼王は既に高齢であった。呉起を擁護した悼王の死後に呉起は反対派によって殺され、改革も頓挫した。
斉・稷下の学士

紀元前4世紀の盛時をもたらした威王宣王は、各地から多くの学者を集めた。これらの学者には、臨?の13の城門のうち西門の一つである稷門の近く(稷下)の邸宅が与えられ、多額の資金を支給して学問・思想の研究・著述にあたらせた。こうした学者たちは「稷下の学士」「稷下先生」などともよばれ、陰陽家鄒衍、贅壻であった淳于?道家である田駢、道家にも法家にも属する慎到、これも道家の接予、もう一人の著名な道家で環淵、性悪説を唱えた儒家荀子白馬非馬説で有名な兒説墨家系統だが道家でもある宋?、これも墨家系統であるが道家でもある尹文兵法家で世に名高い孫?などが著名である。

このような積極的な人材登用に刺激されたのか、性善説で有名な孟子も斉に仕官しに来た。しかし孟子は、俸給ももらわずただ論争するのみの学士と同等にされたくなく、稷下の学士と同じ対応を拒み、宣王の師としての対応を要求した。

鬼谷は斉人であったが、稷下の学士であったかどうかは不明である。鬼谷は蘇秦張儀の師である。

稷下の学士たちは日々論争し、人々はこれを百家争鳴と呼んだ。さまざまな思想や学問が接触し、学者たちの間で討論が行わることで、論理が磨かれ、相互理解を深めることにつながった。こうして形成されたさまざまな学問は、稷下の学とも呼ばれる。このように討論をするので、稷下の学士は弁論術に磨きをかけ、論理を新たにしていった。そのような人物は、戦国時代では弁者察者と呼ばれていた。

稷下の学士は、直接斉の政治に関与する人々ではなかったが、につぐ次官級の俸禄を与えられて優遇された。人数は、数百人から千人ともいわれている。おそらく彼らは斉の政府が政治を行う上での案を採る対象として招かれた、もしくは集まった人々であると思われる。しかし、中には例外もいる。稷下の学者村の初代村長となった淳于?は、何度も他国に使節として派遣されている。
稷下の学士の始まり

斉の稷下の学士は、それより前の、の積極的な人材登用に刺激されて始まった。魏の文侯は、孔子の弟子である子夏に経学六芸を教わった。文侯の下には子夏と縁のある人物が多く集まった。子夏の弟子で文侯の顧問となった李克(別名・李?)、同じく子夏の弟子で顧問になった段干木、孔子の弟子の曽子の弟子だったが破門された呉起(兵法書『呉子』の著者)、迷信の打破に尽力した西門豹、これも文侯の師匠格で田子方などである。しかし、文侯は今すぐ役に立つような実務家を求めた。そのため、儒家であると思われるような李克、西門豹は一転して法家となる必要があった。

それと比べると稷下の学士は、実務的な仕事をせず、何かのポストに就く人物は少数であった。そもそも稷下の学士を始めたと思われるのは斉の威王である。初代村長は淳于?であり、稷下の学士の創立を進言したのも淳于?だという説もある。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}宣王、文学遊説の士を喜ぶ。鄒衍、淳于?、田駢、接予、慎到、環淵の徒の如きより七十六人、皆、列弟を賜い、上大夫と為す。治めずして議論す。是を以て斉の稷下の学士、復た盛んにして、且に数百人ならんとす。

と『史記』にあり、上に述べられている6人が代表的な地位にあったようである。
趙・胡服騎射胡服騎射

北の趙は敬侯の下で都を軍事の要衝である晋陽(現在の山西省太原市)から経済の中心地である邯鄲に移した。紀元前307年、敬侯の曾孫の武霊王野望を達成するための準備として胡服騎射を取り入れることを考える。それまでの中華世界の貴族戦士の伝統的な戦術は、3人の戦士が御者と弓射、による白兵戦を分担する戦車戦だった。それに対して北方遊牧民族は戦車を使わず、戦士が直接1頭の馬に乗って弓を放っていた。胡服騎射とは、この遊牧民族の戦法を真似ようというものであった。当時の大夫たちは裾が長く、下部がスカート状の服を着ていた。乗馬のためにはこれは非常に邪魔であり、胡服騎射には遊牧民の乗馬に適したズボン式の服装(胡服)を着る必要がある。

これを下問した所、肥義はすぐに賛成したが、武霊王の叔父の公子成はこれに反対した。中華思想が強く、遊牧民を「蛮夷」と呼んで見下し、直接馬に乗る事を蛮行と見なしていた当時では、肥義のように賛成する者の方が珍しく、公子成が反対したのも無理はなかった。しかし、武霊王は「かつては有苗に舞ひ、は裸国に袒ぐ」(舜は有苗の風習にあわせて踊り、禹は裸国の風習にあわせて服を脱いだ)と粘り強く説得を続け、胡服騎射を取り入れることに成功した。


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