戦国時代_(中国)
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また秦の昭襄王と斉の?王は一時期号を称した[注 6][9][10]
七雄の並立初期の戦国列国紀元前260年の戦国七雄

春秋時代には国の祭祀を絶つと国の祖先から呪われるという考えから、国を占領しても完全に滅ぼしてしまうことはそれほど多くなく、また滅びても復興することがよくあった。戦国時代に入ると容赦がなくなり、戦争に負けることは国の滅亡に直接繋がった。そのような弱肉強食の世界で次第に7つの大国へ収斂されていった。その7つの国を戦国七雄と呼ぶ。春秋時代には名目的には周王の権威も残っていたが、戦国時代になると七雄の君主がそれぞれ「王」を称するようになり(ただし、楚の君主は以前から王であった)、周王の権威は失われた。

戦国時代初期の諸侯国は数十国あり、その中での4国の国力が強く、天下は4分の勢となっている。

春秋時代の長期的な戦争により、晋の国君は春秋末期になると傀儡となり、卿や大夫が政治の実権を掌握することになった。春秋末期、その中でも六卿智氏范氏中行氏韓氏趙氏魏氏が有力であった。范氏と中行氏が滅ぼされる[11]と封地は他四家で分配された[12]。智氏の当主智瑶紀元前455年に韓氏・魏氏の両家と趙氏を滅ぼそうとして、趙無恤の本拠晋陽を水攻めにしたが[13][14][15]、韓氏・魏氏の裏切りにあった。紀元前453年智氏が滅亡した[16]。智氏の土地は配分された。また、三家は晋公室の土地と人民も配分した[17]。これを三家分晋という。

では卿族で小国亡命公子陳完の子孫の田恒が鮑氏と連合して欒氏と高氏から政権を奪い取り滅ぼした[18][19]。遂には国君を追放して自らが国君となった[20][21][22]

は国力が上昇し、は中興した。弱小な諸侯国は併呑されるか附庸国となった。戦国時代中期には主要な大諸侯國は

紀元前403年 - 紀元前230年

(紀元前403年 - 紀元前228年

(紀元前403年 - 紀元前225年

(? - 紀元前223年

紀元前1100年頃 - 紀元前222年

紀元前386年 - 紀元前221年

(? - 紀元前206年

の7国となった。これを戦国七雄という。

小国としては東周中山?・費(中国語版)等が存在していて、宋や中山といった国々も王号を唱えており[8]、諸国における重要度も高かったという指摘もされている。秦の附庸国となった衛を除き、戦国七雄によって併呑された。
概要
魏の覇権 (前403年-前354年)

戦国時代の初期に覇権を握ったのは、晋から分離したうちの一国の魏である。周王朝より諸侯として正式に認められたときの魏の文侯は積極的に人材を求め、李克呉起などを登用して中山国の都を陥落させるなど、魏を最強国とした。子の武侯の時代にも覇権は続き、さらにその子の恵王の時代には、諸侯の間で初めての称号を使うなど、強勢を誇った。

魏が強勢となれたのは、魏の支配領域が周代より文化の中心地とされた中原の中央であり、最も開発が進んだ地域であったからであった。それは一方では周辺諸国からの侵攻を受けやすいということでもあり、開発の余地が無いということでもあった。後方に広大な未開発地帯を持つ斉やなどが台頭してくると、魏は覇権の座から滑り落ちることとなる。
魏の呉起改革

文侯は魏の歴代の君主の中でも一二を争う名君で、積極的に人材を集め、魏の国力を上昇させていた。文侯が呉起を任用するかどうかを家臣の李克に下問したところ、李克は「呉起は貪欲で好色ですが、軍事にかけては名将司馬穰苴も敵いません」と答え、文侯は呉起を任用する事に決めた[23][24]

呉起は軍中にある時は兵士と同じ物を食べ、同じ所に寝て、兵士の中に傷が膿んだ者があると膿を自分の口で吸い出してやった。ある時に呉起が兵士の膿を吸い出してやると、その母が嘆き悲しんだ。将軍がじきじきにあんな事をやってくだされているのに、何故泣くのだと聞かれると「あの子の父親は将軍に膿を吸っていただいて、感激して命もいらずと敵に突撃し戦死しました。あの子もきっとそうなるだろうと嘆いていたのです」と答えたと言う[注 7][25]。この逸話(「吮疽の仁」と呼ばれている)の示すように兵士たちは呉起の行動に感激し、呉起に心服して命も惜しまなかったため、この軍は圧倒的な強さを見せた。

呉起は軍の指揮を執りを討ち、5つの城を奪った。この功績により西河郡守に任じられ、秦・を牽制した[26][27]
桂陵・馬陵の戦い (前354年-前342年)
桂陵の戦い詳細は「桂陵の戦い」を参照
斉の出兵

紀元前354年、魏・の三国連合軍は趙の国都の邯鄲に侵攻した。趙は門を閉じて守りを固め、斉に救いを求める使者を送った。連合軍は邯鄲を包囲し、一気に趙を滅ぼそうとした。斉の威王は趙の危機を知り、救援のために出兵しようとした。しかし将軍の段干朋は遅れて出兵して魏軍が疲弊したときを狙う戦術を提案した。その戦術は、すぐに少ない兵力で南に向かい襄陵を攻撃して、魏の国力を疲弊させ、魏が邯鄲を落として、魏と趙が再び戦うことができないときに正面から攻撃することであった。威王は提案を採用し、趙と魏の両軍が一年以上膠着状態となり邯鄲城が落ちたときのみ、田忌(中国語版)を総大将、孫?を軍師とした斉軍主力を率いて趙を支援することを決めた[28]
孫?の策略

初めに田忌は邯鄲で魏軍の主力と決戦して邯鄲の包囲を解く作戦を提案した。しかし、孫?は否とした。「絡んだ紐を解く時は無闇に引っ張るものではなく、喧嘩を止めさせる時は殴り合いに加わらないものです」と言った。そして斬新で実行可能な方法、「批亢搗虚」と「疾走大梁」を提案した。「批亢搗虚」とは要所を突き、虚を突いて、形勢を崩すことである。「疾走大梁」とは迅雷の速さで魏の国都の大梁を攻めて魏の兵糧の輸送を止める。そうすると魏軍は必ず自軍を救うため、自ずと邯鄲の包囲を解くはずである。そして斉軍は魏軍の疲労を利用して魏軍を一気に破るということである。
?涓、策略に嵌る

田忌は孫?の「批亢搗虚」の策を採用し斉軍主力を大梁に向かわせた。この重要な瞬間に、邯鄲城は落とされたが魏軍の少数の兵力を邯鄲に置いて、?涓は主力を率いて大梁に向かった。しかし同時に斉軍は桂陵に潜伏し、魏軍の追撃の準備をした。魏軍は長期の国外の戦闘により、疲弊が露わになっていた。加えて、長距離で急速な行軍により、士気は下がった。斉軍と魏軍は一戦を交えたが、魏軍は大敗し、総大将?涓は生け捕りとなった。結果的に魏軍の包囲は解けた。「批亢搗虚」は桂陵の戦いで実際に運用され、後世では「囲魏救趙」と呼ばれる策略となった。
襄陵の戦い

しかし、紀元前352年、魏は韓と盟を結び、斉の襄陵城(現在の河南省商丘市?県)を包囲し、斉軍はこの戦で大敗した。


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