戦国大名
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天文8年7月、肥前の大名・有馬晴純は在京雑掌の大村純前を介して、室町幕府から修理大夫の任官を、足利義晴からは「晴」字の偏諱を授かった[10]。その後、純前は在京雑掌の任務を終え帰国することになった際、幕府に将軍への謁見を願い出た。当初幕府では有馬氏の被官として活動する大村氏を陪臣と認識し、庭から御目見得させる考えであった。しかし義晴が内談衆に諮問すると大村氏は将軍の直臣であることが明らかになり天文8年閏6月3日、純前は座敷上で将軍に謁見する名誉に浴し、さらに「晴」字の偏諱を願い出て許された[11]

しかし帰国後、純前は幕府に偏諱の返上の申し出を行った。有馬氏にとって、自らの被官に過ぎない大村氏が偏諱を受けて有馬氏と同格になることは到底受け入れられないことであり、純前の行動は有馬氏に斟酌した結果であった。しかし有馬氏は大村氏を許すことは無く、その後実子の純忠を大村氏に入嗣させ大村氏を乗っ取ってしまった[12]。また永禄5?6年頃、伊予・喜多郡の宇都宮豊綱が将軍に遠江守への補任を求めた時には、同じく伊予の河野通宣が妨害工作を行っており[13]、戦国期の大名・領主たちは自らの家格上昇を望む一方で、周辺勢力が家格を上昇させていくことを許容することは無かった。伊達稙宗

家格の違いが軋轢を生み、対外侵攻と失脚を招くこともあった。16世紀前半、陸奥の伊達氏は大名並みの支配を実現していたが、陸奥には同地域の武家秩序の頂点に位置する奥州探題大崎氏が存在し身分的には国人に過ぎなかった。文亀3年(1503年)に伊達尚宗が越後の上杉氏に送った書状について、「国人」から「大名」への書札礼に適っていないことが上杉氏側で問題になり上杉房能を怒らせたこともあった[14][15]。そのような状況を打開するため尚宗の子、稙宗は猟官運動に励むようになった。永正14年(1517年)、残存史料から判明するだけでも幕府関係者に太刀7腰・黄金117両(3500貫相当)・馬17疋を、朝廷へは太刀代10貫・馬代20貫・その他仲介料として20貫300文と、膨大な金銭を献上し左京大夫への任官と偏諱を賜った[16]。さらに大永2年(1522年)に稙宗は幕府に奥州探題への補任を求めた。しかし幕府は陸奥守護という「空職」を与えただけで、大崎氏という上級権力が存在する状況は変わることはなかった。その後幕府と距離を置くようになった稙宗は軍事侵攻を重ね領国の拡大に傾注するようになるが、度重なる軍事動員が家中の不満を招き、嫡男晴宗の手によって幽閉されてしまうことになった(伊達氏天文の乱[17]。稙宗のひ孫にあたる伊達政宗は稙宗について、「(家中の人たちを)恐怖に感じさせた」と語っており、後世、稙宗期の治世が極めてネガティブに受け止められていたことが分かる[18]毛利隆元

中国地方の戦国大名、毛利隆元は、父である毛利元就の偉業として4?5ヵ国を領有したことと、毛利氏を幕府の御相伴衆に列せられるまで家格を上昇させたことを挙げており、分国の大幅な拡大と幕府内の身分上昇は同等の価値があるものと認識していた[19]。また大内義興は永正9年(1512年)、前年の船岡山合戦の褒賞として朝廷に従三位の位階を求めて、これを賜ることに成功しており、官位は恩賞としても重要なものであった[20]。戦国期の大名たちは、下剋上する成り上り者が結局は官位を得て飾りとする、と言われるように本来的に権威志向的な存在であり[21]、そのため官位・官途の付与者である天皇・将軍は大名らにとって必要不可欠の存在であり続けた[22][23]

戦国時代の日本では依然として室町幕府や朝廷は全国政権として存在し続けており、そのため地方の大名たちは朝廷や幕府の認証を受けずに自らの支配の正当性を証明することは困難であった[24]。また地方の戦国大名たちも将軍から偏諱を下賜されるなど、戦国時代においても足利将軍を自らの主君であると認識し続けていた[25]
支配とその限界

戦国大名は、領国内に一円的な支配を及ぼした。この領国は高い独立性を有しており、地域国家と呼びうる実態を持っていた。戦国大名は、国人・被官層を家臣として組織化し、自らの本拠地周辺に集住させて城下町を形成する等により、国人・被官層と土地・民衆との間の支配関係を解消もしくは弱体化しようと図った。在地社会に対しては、在地社会の安全を確保する見返りに軍役を課すとともに、検地を実施して新たな租税収取体系を構築した。また、国人・被官層及び在地社会における紛争を調停する基準として分国法を制定する者もいた。こうした戦国大名による地域国家内の支配体制を大名領国制という。

ただし、戦国大名は、地域国家内において必ずしも超越的な存在ではなかった。戦国大名の権力基盤は、家臣として組織化された国人・被官層だった。室町時代中期頃から日本社会に広がった一揆は、国人・被官層にも浸透しており、国人・被官層は自らの利権を共同で確保していくため、国人一揆といった同盟関係を構築していた。そして、戦国大名は国人・被官層が結成した一揆関係に支えられて存立していたのであり、国人・被官層の権益を守る能力のない戦国大名は排除されることもあり、こうした事例は主君押込と呼ばれた。

また足利将軍のように広域の複数の諸大名に対して影響力を行使できる存在は、一般の大名の中には見られず戦国大名がどれだけ勢力を拡大したとしても、所詮それは各大名の「国」内に留まるものであり、将軍のように列島規模で影響力を行使する存在にはなりえなかった[26]。そのため戦国大名たちも全国的な武家の社会秩序の中に自らを位置づける事を必要としており、そこから脱退する発想は持たなかった[27]
主な戦国大名

以下のリストには戦国大名と国衆の区別に議論のある家も含む。
蝦夷地・奥羽

蝦夷地陸奥出羽

蠣崎氏


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