戦争
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国際法において、戦争の当事者は一般的に国家であると考えられており、伝統的な慣習国際法の観点からは宣戦布告によって始まり、講和によって終結するものであると考えられる。しかし、歴史上宣戦布告が行われず「実質戦争状態」に突入した事例が存在するため、現在ではこの形式は重要視されていない。また国家以外の武装集団間での武力衝突は紛争と呼ばれ、たとえば民族間であれば「民族紛争」と呼ばれる。

ただし、国家でない集団の対立にも「戦争」という語が用いられることはある。例えば、南北戦争において1861年イギリスが南軍に対して交戦団体承認を行っている。以下に具体的な例を挙げる。

内戦の当事者は一国内における政府と反逆者(反政府勢力や、革命などにより新政権樹立を目指す勢力・政治団体等も含まれる)である。厳密には国際法上の「戦争」ではない。ただし、既存政府側による交戦者承認があれば国際法上の戦争法規が適用される。

独立戦争の当事者は全体としての国家と部分としての地域植民地である。これは内戦の一種であるという見方と、独立しようとする勢力を暫定的に国家とみなして国家間の対立とする見方が可能である。ただし、現代においては国連憲章にも謳われている人民自決権の概念が国際社会の根本的な価値として認められたことからも、植民地支配及び外国による占領に対し並びに人種差別体制に対する武力紛争の場合は内戦(非国際武力紛争)ではなく国際的武力紛争として扱われる。これに伴い、国家間に適用される国際人道法ならびに戦争法規が適用されることになる。

歴史学関連では、戦争の定義を共有することは難しい。例えば、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}文化人類学の戦争の定義の一例は、組織があって命令(指揮)と服従の関係を持つ集団と集団との戦い[要出典]。考古学では、考古資料にもとづいて認めることのできる多数の殺傷を伴いうる集団間の武力衝突としている[6]
歴史詳細は「軍事史」を参照蒙古襲来絵詞』から、元・高麗軍に白兵攻撃を仕掛ける日本軍。左端で首を取っている武士は竹崎季長[7]


猿人原人食人説が、オーストラリアの考古学者レイモンド・ダートによって1960年代まで繰り返し主張された。また、1930年代に北京原人食人説がドイツの人類学者フランツ・ワイデンライヒによって疑われた。しかし、世間では北京原人食人説はいよいよ有名になってしまった。これらのことから、猿人・原人の食べ合いが人類の歴史とともにあったと解釈し、広めたのがアメリカの作家ロバート・アードリーであった。さらに動物行動学を興してノーベル賞を受けたオーストリアのコンラート・ローレンツは『攻撃』という、人類の攻撃的本能を説いた。この本能説がさらに広がった。という説を立てている。

ただし、猿人の殺人・食人の疑いを考古学者ボブ・ブレインが示している。また、北京原人の食人説については、その後の研究で世界の人類学者が疑いを示している[8]

判明している情報では、3400年前から今日まで、世界で戦争がなく平和だった期間はわずか268年である[9]
先史時代

文字記録が残っていない先史時代の戦争形態について正確に知ることはできないが、太古から紛争形態を受け継いでいるアフリカオセアニアの地域から、その形態を推察することができる。狩猟採集社会の観察からは、原初のヒトが置かれた環境においても資源の獲得や縄張り争いによって集団対集団の戦争が行われることを示唆している。

イラクのシャニダール洞窟に葬られた男性ネアンデルタール人は、5万年前に槍で傷を受けて死んだ人だった。殺人か事故かは分からないが、人が人を殺した最古の証拠である[10]

縄文時代の暴力による死亡率は1.8パーセントである。この結果は他地域の狩猟採集時代の死亡率、十数パーセントより低いという。[11]

12,000 - 10,000年前頃(後期旧石器時代末)のナイル川上流にあるジェベル=サハバ117遺跡は墓地遺跡であるが、幼児から老人までの58体の遺体が埋葬されている。これらのうちの24体の頭・胸・背・腹のそばに116個もの石器(細石器)が残っていた。また骨に突き刺さった状況の石器も多い。この遺跡は農耕社会出現前の食料採集民の戦争の確実な例とされている[12]
古代文明の戦争

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出典検索?: "戦争" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2019年8月)
古代ローマの英雄カエサルを描いた戦争画

古代では、農業の発達により人口が増加し経済的な富が蓄えられたことで、国家体制が整えられていき通信が整備された。この為、戦争の規模や軍事組織も拡大した。それぞれの文明は自己の安全を保障し、また自己の勢力を拡大するために闘争し、集団的利益のために征服戦争すら行われた。

また土器石器から青銅器鉄器を利用した兵器武器の開発が進み、軍事力の能力が飛躍的に発展して大国化する国家が現れ始める。部族集団が都市国家へと成長し、ペルシアローマのような帝国に発展したのが例として挙げられる。またこの時代には科学技術が発達して、戦車(二輪)や投石器、弓矢などが新兵器として登場し、戦争の形態をかつての儀式形式から会戦という形態に移行していった。
中世ヨーロッパ552年に起きた東ローマ帝国東ゴート王国の戦い

古代、西ローマ帝国ゲルマン同盟部族に戦力を提供させていたことにより諸部族に文化が伝播してゆき、フランク王国(欧州北西部)、西ゴート王国イベリア半島)、ブルグント王国(欧州東部)などが成立していった。中世前期に成立した神聖ローマ帝国は8世紀から15世紀に至るまでイスラムの王朝レコンキスタの戦いを行った。

中世盛期には、フランクとモンゴルの同盟を後ろ盾として、カトリック教会そのものが呼びかけて数次にわたる十字軍戦争も行われたが成果は乏しかった。また、西フランク王国フランドルブルッヘハンザ同盟の在外商館や取引所を置き国際貿易を拡大させていたが、14世紀になるとフランス王国イングランド王国とのあいだで百年戦争が争われた。この戦費の調達においてフランスはジェノヴァ共和国、イングランドはヴェネツィア共和国戦債(英語版)を引き受けさせている。

中世ヨーロッパにおいては儀式的な要素も根強く残っており、カトリック教会による世俗権力への政治的な統制は戦争の発生を抑制していた。ただし中世にも多くの軍人らが存在し、また技術的には甲冑を装備した騎兵が有力であったが、たとえばイギリスプランタジネット朝フランスバロア朝による百年戦争は王位をめぐって長期間にわたってフランスにおいて行われたものの、フランス社会全体に作戦期間相応の壊滅的な被害をもたらすことはなく、断続的かつ散発的な戦闘が休戦を挟みながら行われていた。これは長期間にわたって大規模な戦力を維持することが当時の軍隊には能力的に困難であったことや、キリスト教世界としての政治的な団結を保持していたこと、また軍事技術の制約から作戦行動の長期化や大規模化が難しかったことなどが理由として挙げられる。戦争の恐怖はむしろ作戦部隊の兵站(物資の補給)業務が不在であり、また規律が不十分な兵士たちが自らの糧食を確保するために勝手に現地で略奪を行うため、現地住民はそのたびに被害を受けていた。


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