1871年にドイツ帝国が成立すると、ドイツ帝国憲法(ビスマルク憲法)[24]68条は、「連邦領域内の公安を紊るの虞あるときは、皇帝は、その各部に戒厳を宣言することができる。戒厳宣告の条件、公布の形式及びその効果を定める帝国法律の制定に至るまでは、1851年6月4日プロイセン法の条項を適用する。[25]」と規定し、プロイセンの1851年6月4日の合囲状態に関する法律が援用された[23]。
なお、ドイツ帝国憲法68条とプロイセン憲法111条との関係に対する理解の混乱が、後に、大日本帝国憲法における立法上及び解釈上の混乱をもたらしたと指摘されている[23]。
日本における戒厳令は、これらフランス及びプロイセンの戒厳令を母法としている[26]。 イギリス及びアメリカには、憲法のなかに非常法は存在しない[23]。 イギリスにおいては、アイルランドや植民地に適用する場合を除き、非常法の執行を授権する法律はなかった[23]。1920年に制定された非常権法
イギリス・アメリカ
アメリカ合衆国憲法1条9節2項は、「人身保護令状の特権は、反乱又は侵略に際し公共の安全上必要とされる場合のほか、これを停止してはならない。[28] 」と規定している[29]。しかし、実際に、誰が、どのような手続で、このような例外事態を認定し、非常権を発動するかについては、その権限を明示していない[29]。
イギリス及びアメリカにおいては、普通法(common law)に対して、非常法としての不文法である軍法(martial law)という概念が存在している[29]。軍法の発動は、シビリアン・コントロールを前提とする非常権法(イギリス)の発動とは異なり、通常の法の停止及び軍の裁判所による一国の全部又は一部の支配を実現することであるから、軍隊指揮官が独裁的に執行権力を行使することを意味する[30]。イギリス及びアメリカにおいては、軍法は、国家の緊急避難を意味する自然法的な存在として適法であり、必要こそが法である(必要についての判断の適否が軍法発動の適否を決定する)という考え方に立脚している[31]。そのため、必要の適否については、イギリスでは裁判所が、アメリカでは議会が判断し、その判断の適否については、イギリスでは議会が、アメリカでは裁判所が審査するという構造をとっており、権力分立によるバランスがこの不文法を限定しているとされている[32]。
なお、日本語でいう「戒厳令」という法令用語は、「合囲法」の概念を表現するものでありながら、不文法(軍法)であるmartial lawの訳語として用いられている[33]。逆に、英語でも、合囲法・戒厳令がmartial lawとして表現されている[33]。このような用語法が、各国家における非常法についての理解の混乱の一因になっていると指摘されている[33]。
日本における戒厳.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに戒嚴令の原文があります。戒厳司令部 二・二六事件の際に設置
大日本帝国憲法制定前の法体系において戒厳の態様を規定していたのが、フランス及びプロイセンの戒厳法をモデルとして制定された[26]、1882年(明治15年)8月5日太政官布告第36号「戒嚴令」である。その後、1889年(明治22年)2月11日に公布された大日本帝国憲法の第14条において、「天皇は戒厳を宣告す。戒厳の要件及効力は法律を以て之を定む」とし、憲法の体系に組み込まれた。
戒厳の宣告は、一時的に兵力による統治を設定する行為であって、専ら軍事上の必要に基づくものであるが、統帥権の作用ではなく、国務上の大権に属する[34]。そのため、戒厳の宣告は、天皇大権の施行に関する勅旨を宣誥するものとして、詔書によって行うこととされ、天皇の親署の後、御璽をツし、内閣総理大臣が年月日を記入し、他の国務各大臣とともに副署することを要する[35](公式令1条1項、2項)。
なお、戒厳の宣告は天皇の親裁事項であるが、緊急を要する場合には軍司令官に戒厳を宣告させることが認められている(戒厳令4条、5条)。この場合、軍司令官は直ちに主務大臣に具申するとともに、戒厳を宣告する地の行政官庁及び裁判所に対して通知することとなる[36]。
このように、「戒厳令」は「戒厳」を規定した法令の名称であり、「戒厳の宣告」により「戒厳令」に規定された非常事態措置が適用されることになる。したがって、戒厳の宣告を行うこと自体をしばしば「戒厳令をしく」「戒厳令下に置く」というが、この表現は誤りである。また、東京周辺が騒乱状態に陥った際、例えば二・二六事件時にとられた行政措置(後述)を「戒厳」ということもあるが、これも正しい表現ではない。
なお、日本の現行法には、戒厳に関する規定や戒厳令に相当する法令は存在しない。しかしながら、国の非常事態に対処する緊急措置として次のような規定が設けられている。 日本の戒厳令において、以下の2種類の戒厳地域区分がかつて存在した。 以上、「戒厳令」で規定された戒厳の他に、東京周辺にて緊急勅令に基づくいわゆる「行政戒厳」が宣告された例が3例ある(日付は勅令の公布日)。
緊急事態の布告(警察法71条1項)
防衛出動(自衛隊法76条1項)
防衛出動時の武力行使(自衛隊法88条1項)
防衛出動時の物資の収用(自衛隊法103条)
治安出動(自衛隊法78条1項)
治安出動時の武器使用(自衛隊法90条1項)
戒厳地域区分
臨戦地境
戦時にあって警備を要する地域。軍事に関する事件に限り、地方行政・司法事務が当該地域軍司令官の管掌となる。
合囲地境
敵に包囲されている、または攻撃を受けている地域。一切の地方行政・司法事務が当該地域軍司令官の管掌となる。
戒厳の実例
臨戦地境戒厳
日清戦争中の広島市全部及び宇品地区
日露戦争中の対馬及びその沿海、長崎市、佐世保市、函館市、澎湖島、馬公要港、台湾全域
合囲地境戒厳
発令された例はない。
勅令による行政戒厳
1905年(明治38年)9月6日 - 11月29日、日比谷焼打事件東京市、東京府荏原郡・豊多摩郡・北多摩郡・南足立郡・南葛飾郡