戒厳令
[Wikipedia|▼Menu]
その後、1849年8月9日の戒厳令は、第三共和制期に制定された1878年4月3日の戒厳令(「合囲状態に関する法律」)(フランス語版)によって改正され、恣意的な発動を制限するために条件及び手続が厳しく規定されることとなったが[11]、第三共和制憲法には、戒厳令を制定する憲法上の根拠は存在しなかった[12]
ドイツ「合囲状態 (ドイツ)(ドイツ語版)」も参照

専制君主時代のプロイセン王国においては、何らの制限なく国王が非常手段を執る権利を有していたが、1809年9月30日の「包囲又は包囲攻撃に際する要塞及びその地域における文事官憲及び公共団体の競合及び義務負担に関する勅令」(Das Publikandum vom 30. September 1809, uber die Konkurrenz und Verpflichitung der Zivilautoritaten und Kommunen in der Festungen und deren bei entsprechender Einschliszung order Belagerung)は、フランス法に倣って、戦時における要塞の例外状態を規定した[13]

その後、1848年のフランスの二月革命がドイツに波及して三月革命が発生すると、同年5月にはフランクフルト国民議会とプロイセン国民議会(ドイツ語版)が成立した[11]。フランクフルト国民議会は、ドイツ国憲法(パウロ教会憲法)を制定したが、翌1849年3月にプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世がドイツ皇帝の戴冠を拒否すると、憲法擁護を叫ぶ南ドイツ諸邦において憲法戦役が生じた[11]。これに対して、プロイセン国民議会は、実在する王権と対峙せざるをえない状況にあった[11]。同年5月にプロイセン政府が国民議会に提出した憲法草案[14]においては、暴動の際、法律が定めるところによって、身体の自由、住居の不可侵、法律に定める裁判官の裁判を受ける権利並びに集会及び結社の自由を保障した憲法の条項を停止することができると規定されていたところ[15]、プロイセン国民議会の委員会は修正案(ヴァルデック草案(ドイツ語版)[16])を作成し、その110条において、「戦争又は暴動の場合、特別法によって、遅くとも直後の議会の開会までの間、憲法第5条、第13条及び第26条の一時的かつ地域的な停止を宣言することができる。この場合において、両議院が召集されていないときは、その停止は、内閣の決定によって、かつ、その責任の下に、仮に宣言することができる。この場合、両院は直ちに召集されなければならない。」と規定した[17]。しかし、パリの六月蜂起に対する反動を契機として、プロイセンにおいても、反動の動きがあり、11月12日の王権によるクーデターによって、軍によるベルリンの制圧、市民防衛軍の解体、戒厳宣告が行われた[17]。フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は、同年12月5日に欽定憲法(プロイセン憲法(ドイツ語版))[18]を発布し、国民議会を解散した[17]

1849年2月にベルリンに召集された憲法修正議会は、前年11月12日の戒厳宣告を違法であると決議したが、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は、下院を解散し、欽定憲法105条2項の規定に基づき、緊急勅令として、「合囲状態に関する勅令」を制定した[19]。憲法修正議会は、1850年1月30日、修正憲法[20]を成立させたが、「合囲状態に関する勅令」についての討議は行われなかった[19]。修正憲法111条は、欽定憲法110条の規定をほとんどそのまま引き継ぎ、「戦時又は事変に際し、公共の安全に対して急迫した危険があるときは、憲法第5条、第6条、第7条、第27条、第28条、第29条、第30条及び第36条は、その時期及びその地域を限り、その効力を停止することができる。その細則は、法律で定める。[21]」と規定した[19]。ヴァルデック草案に比べて、プロイセン憲法の規定は、例外状態における憲法の人権停止条項を大幅に増やし、議会は、これを削減しなかった[19]。欽定憲法及び修正憲法に列挙された人権条項は、人身の自由、住居の不可侵、法定の裁判を受ける権利、言論・著作・出版・書画による表現の自由と検閲の禁止及びこれらの手段による犯罪は一般刑法のみに従うこと、集会の自由、結社の自由、法定かつ文事官庁の要求によらない兵力使用の禁止であった[19]。プロイセン憲法に基づく第1回議会においては、「合囲状態に関する勅令」が「臨時に発した命令」として承認を求められるとともに、憲法111条に基づく法案として提出された[22]。この法案は、修正を経て、1851年6月4日の合囲状態に関する法律(ドイツ語版)(Gesetz uber den Belagerungszustand vom 4. Juni 1851)として制定された[23]

1871年ドイツ帝国が成立すると、ドイツ帝国憲法(ビスマルク憲法[24]68条は、「連邦領域内の公安を紊るの虞あるときは、皇帝は、その各部に戒厳を宣言することができる。戒厳宣告の条件、公布の形式及びその効果を定める帝国法律の制定に至るまでは、1851年6月4日プロイセン法の条項を適用する。[25]」と規定し、プロイセンの1851年6月4日の合囲状態に関する法律が援用された[23]

なお、ドイツ帝国憲法68条とプロイセン憲法111条との関係に対する理解の混乱が、後に、大日本帝国憲法における立法上及び解釈上の混乱をもたらしたと指摘されている[23]

日本における戒厳令は、これらフランス及びプロイセンの戒厳令を母法としている[26]
イギリス・アメリカ

イギリス及びアメリカには、憲法のなかに非常法は存在しない[23]

イギリスにおいては、アイルランド植民地に適用する場合を除き、非常法の執行を授権する法律はなかった[23]1920年に制定された非常権法(英語版)(The Emergency Powers Act)は、国王に対して非常事態宣言を発出する権限を付与したが、これは、文事官憲を援助するための軍隊の出動に関するものであって、軍事官憲に執行権を付与する合囲法とは性格を全く異にしている[27]

アメリカ合衆国憲法1条9節2項は、「人身保護令状の特権は、反乱又は侵略に際し公共の安全上必要とされる場合のほか、これを停止してはならない。[28] 」と規定している[29]。しかし、実際に、誰が、どのような手続で、このような例外事態を認定し、非常権を発動するかについては、その権限を明示していない[29]

イギリス及びアメリカにおいては、普通法(common law)に対して、非常法としての不文法である軍法(martial law)という概念が存在している[29]。軍法の発動は、シビリアン・コントロールを前提とする非常権法(イギリス)の発動とは異なり、通常の法の停止及び軍の裁判所による一国の全部又は一部の支配を実現することであるから、軍隊指揮官が独裁的に執行権力を行使することを意味する[30]。イギリス及びアメリカにおいては、軍法は、国家の緊急避難を意味する自然法的な存在として適法であり、必要こそが法である(必要についての判断の適否が軍法発動の適否を決定する)という考え方に立脚している[31]。そのため、必要の適否については、イギリスでは裁判所が、アメリカでは議会が判断し、その判断の適否については、イギリスでは議会が、アメリカでは裁判所が審査するという構造をとっており、権力分立によるバランスがこの不文法を限定しているとされている[32]

なお、日本語でいう「戒厳令」という法令用語は、「合囲法」の概念を表現するものでありながら、不文法(軍法)であるmartial lawの訳語として用いられている[33]。逆に、英語でも、合囲法・戒厳令がmartial lawとして表現されている[33]。このような用語法が、各国家における非常法についての理解の混乱の一因になっていると指摘されている[33]
日本における戒厳.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに戒嚴令の原文があります。戒厳司令部 二・二六事件の際に設置


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:76 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef