我が闘争
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Mein Kampf

『我が闘争』(わがとうそう、ドイツ語: Mein Kampf、マインカンプ)は、ナチ党指導者のアドルフ・ヒトラーの著作。全2巻で、第1巻は1925年、第2巻は1926年に出版された[1]。ヒトラーの自伝的要素と政治的世界観ドイツ語: Weltanschauung)の表明などから構成されており、ナチズムバイブルとなった。
書名

ヒトラーが当初希望した書名は『Viereinhalb Jahre (des Kampfes) gegen Luge, Dummheit und Feigheit』(虚偽、愚鈍、臆病に対する(闘争の)4年半)であったが、出版担当のマックス・アマンは、より短い『Mein Kampf』(我が闘争)を推奨した[2][3]
序言茲に揚ぐるは、一九二三年十一月九日午後零時三十分ミュンヘン將軍廟會館前と陸軍省内庭とに於て、ドイツ國民の復興を確信しつゝ斃れた人々である。

ヴィルヘルム・ヴォルフローレンツ・リッター・フォン・シュトランスキーマックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒターヨハン・リックメルステオドール・フォン・デル・ブフォルテンクラウス・フォン・パーペクルト・ノイバウアーカール・ラフォルツカール・クーンオスカル・ケルナーアントン・フェッヘンベルガーマルティン・ファウストヴィルヘルム・エーリッヒテオドール・カゼラアンドレアス・バウリードルフェリックス・アルファルト
商人技師工學博士退役騎兵大尉控訴院判事商人小使工科學生給仕長商人錠前師銀行員銀行員銀行員帽子職人商人
僞而非國民政廳はこれ等の志士のために共同の墓碑を建立することを許さなかつた。故に、自分は本書の第一巻を記念としてこれ等の志士に捧ぐるものである。願くは、志士よ、血盟の友として永へに我等同志の前途を照示せんことを。 ? 一九二四年十月十六日
レッヒ河畔ランツベルク要塞監獄に於て、アードルフ・ヒットラー[4]
目次

第1巻:


第1章: 私の両親家庭

第2章: ウィーンでの勉学と苦悩の年月

第3章: ウィーン時代に形成された政治的考察

第4章: ミュンヘン

第5章: 世界大戦

第6章: 戦時プロパガンダ

第7章: 革命

第8章: 政治活動の開始

第9章: ドイツ労働者党

第10章: 崩壊の原因

第11章: 民族人種

第12章: 国家社会主義ドイツ労働者党の初期構築段階


第2巻: 国家社会主義運動(ナチズム

第1章: 哲学

第2章: 国家

第3章: 議題と市民

第4章: 民族国家の特徴と概念

第5章: 哲学と組織

第6章: 初期の闘争 - 話し言葉の重要性

第7章: 赤色戦線との闘争

第8章: 強者は最強で孤独

第9章: 突撃隊の手段と組織に関する基本的概念

第10章: 覆面としての連邦制

第11章: プロパガンダと組織

第12章: 労働組合問題

第13章: 戦後のドイツ同盟政策

第14章: 西洋の指導または西洋の政策

第15章: 緊急防衛の権利


まとめ

索引

経緯
執筆1925年発行の初版(ドイツ歴史博物館蔵)

ヒトラーは1923年11月のミュンヘン一揆の失敗後、獄中で当書の執筆を開始した。当初は多数の面会者と会っていたが、すぐに執筆に没頭した。執筆中に本を2巻にすることとし、1巻は1925年当初の発行を予定した。ランツベルク刑務所の管理者は「彼(ヒトラー)はこの本が多くの版を重ねて、彼の財政的債務や法廷費用支払の助けとなる事を望んだ」と記した。

ヒトラーは1924年ランツベルク刑務所で収監されていたエミール・モーリスに、のちにルドルフ・ヘスに対し口述した。出獄後、ベルンハルト・シュテンプフレ(ドイツ語版)、新聞記者のヨーゼフ・ツェルニー(Josef Czerny)らが手直ししている[3]が、雑な著述と反復が多く、読解するのが困難であったとされる。
内容「アドルフ・ヒトラー#生涯」、「国家社会主義ドイツ労働者党#歴史」、および「ナチズム」も参照

第1巻となる前半部分は自分の生い立ちを振り返りつつ、ナチ党の結成に至るまでの経緯が記述されている。自叙伝は他の自叙伝同様に誇張と歪曲がなされたものであるが、全体としてヒトラー自身の幼年期と反ユダヤ主義および軍国主義的となったウィーン時代が詳細に記述されている。

第2巻となる後半部分では、自らの政治手法、群集心理についての考察とプロパガンダのノウハウも記されている。戦争教育などさまざまな分野を論じ自らの政策を提言している。特に顕著なのは人種主義の観点であり、世界は人種同士が覇権を競っているというナチズム的世界観である。

さらに、あらゆる反ドイツ的なものの創造者であると定義されたユダヤ人に対する反ユダヤ主義も重要な位置を占めている。執筆時、ヒトラーは「ユダヤ人は世界のペスト」であり「最も激しい闘争手段」が使われねばならないと述べており、本書中にも「これらの一万三千か一万五千のヘブライ人の民族破壊者連中を、一度毒ガスの中に放り込んでやったらとしたら、前線での数百万の犠牲も決して無駄ではなかったであろう」という記述が存在する[5]。また「経済の理のみねらうは民族の堕落」「凡そ世の中に武力によらず、経済によって建設された国家なるものはない」[6]と、経済偏重がドイツ帝国の敗北を招いたとしている。

外交政策では、フランス共和国に対して敵対心を持ち、ソビエト社会主義共和国連邦との同盟を「亡滅に陥る」[7]と批判し、「モスコー政権〔モスクワ政権〕は当にそのユダヤ人」[8]であるとしている。現時点で同盟を組べき相手は、イギリスイタリアであるとしている[9]

また、ドイツが国益を伸張するためには、貿易を拡大するか、植民地を得るか、ソビエト社会主義共和国連邦を征服して、東方で領土拡張するかの3つしかないとし、前者二つは必然的にイギリスとの対決を呼び起こすため不可能であるとした。これは東方における生存圏 (Lebensraum) 獲得のため、ヨーロッパにおける東方進出(東方生存圏)を表明したものであり[10]、後の独ソ戦の要因の一つとなった。
人物評

ヴィルヘルム・クーノ[11]などのドイツの政治家を酷評する一方で、ベニート・ムッソリーニを「彼の仕事を見る度に感嘆の声を発せざるを得なかった」「巨人」[12]と高く評価している。
出版「我が闘争」を結婚記念品として贈呈されるSS隊員(1936年)

第1巻は、1925年7月18日にナチ党の出版局であるフランツ・エーア出版社から発売された。価格は12ライヒスマルクであり、当時の一般書の約2倍の値段になる。これは、あまり売れないと判断したアマンが、少部数でも元を取れるようにしたためという。1925年には9,473部[13]1926年には6,913部が売れた[14]。1926年12月には第2巻が出版されたが、1927年の売り上げは全巻をあわせて5,607部にとどまった[15]


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