成蹊大学
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2009年03月 - 2021年03月佃和夫[8]三菱重工業社長・会長
2021年04月 - 現在小林健[8]三菱商事16代目社長・会長

建学の精神(校訓・理念・学是)
教育理念

「個性を持った自立的な人間の創造」

   個性尊重、品性の陶冶、勤労の実践
教育目標

多様性を受け入れる豊かな感性と人間性を培う

生涯学び続けるための自力学習の基礎をかためる

国際舞台でリーダーシップを発揮できる能力を涵養する

成蹊教養カリキュラム

2010年度より、文理の枠を越えた幅広い教養と確かな英語力の修得を目指す、全学部共通の教養教育「成蹊教養カリキュラム」を導入した。特色は、以下の通りである。

社会で使える英語力を身につけるため、すべての学部で英語を必修科目としており、
TOEICTOEFL受験が必須となっている。

社会で求められる水準の教養を身につけるため、理系・文系にかかわらず幅広い分野の知識を修得する。これにより、多角的な視点と柔軟な思考力を身につける。

社会人として必要な他者を理解する力、自己表現力などコミュニケーションスキルを身につけるため、ゼミ形式の双方向対話型の授業を1年次の必修としている。また、日本語力科目があり、確実な文章表現力を養う。

コア科目と発展科目により、学生の興味や関心に応じて履修でき、段階的な学習が可能となっている。

丸の内ビジネス研修(MBT)

2013年春より、3年生及び大学院1年生を対象に、ビジネスの中心地である丸の内を舞台とした産学連携によるキャリア教育プロジェクト「丸の内ビジネス研修(MBT: Marunouchi Business Training)」を実施している。自ら課題を発見し、解決できる人材の育成を目的として掲げ、半年を超える期間をかけて行う新しい形の人材育成プログラムとなっている。協力企業での1、2週間のインターンシップ実習や、企業担当者の指導のもと、課題に取り組み、討論や発表を行う。
協力企業は、成蹊と縁の深い三菱グループの企業が中心となっている。2013年度は21社、2014年度は23社がプログラムに参加している。業界は多岐にわたっており、金融や商社・不動産・重工業・鉄鋼・非鉄・自動車などいずれも大手企業で、三菱UFJフィナンシャル・グループ三菱商事三菱電機三菱地所など多数。

全学的な公募プログラムであり、3月に募集を開始し、4月上旬の1次(書類)選考と2次(面接)選考を経て、4月中旬から研修を始める。2014年度は3年生・修士1年生約200人の応募があり、合格したのは35人で、倍率は約6倍となっている[9]
詳しくは、 ⇒丸の内ビジネス研修(MBT) を参照。
沿革「成蹊高等学校 (旧制)」も参照
略歴

日露戦争が近づくなか、母校の中学校で教鞭をとっていた中村春二は、日本の教育が人間の個性を無視した画一的教育に陥っている現実に直面する。また当時は資本主義の発展により貧富の差が拡大しており、高等教育に進めるのは有産階級の子弟ばかりであった。この現状を憂えた中村は、貧窮家庭の俊才を集め、自由な立場での真の人間教育を行うため、1906年(明治39年)、自宅に私塾「成蹊園」を開設した。塾生わずか3人であった。一方、ケンブリッジ大学で英国教育に触れ、個性と自由を尊重した教育の重要性を痛感していた岩崎小弥太今村繁三は、中村の理想に共鳴し、有形無形の援助を行うようになる。

社会主義者による大逆事件が起こり、資本家の間に窮民救済の動きが活発になるなか、中村は恵まれぬ家庭の子を対象にした無月謝の学校を作る事こそ本道であると主張した。岩崎と今村の援助を得て、1912年(明治45年)、池袋に成蹊実務学校を開設した。無月謝、全寮制、少人数制を特色とし、中村は恵まれぬ境遇の子弟に進学の道を開き、英才教育を施す事によって埋もれた人材を発掘しようとした。1914年(大正3年)に(旧制)成蹊中学校を開設した。その後成蹊小学校、成蹊女学校、成蹊実業専門学校を開設し、1919年(大正8年)に財団法人成蹊学園が設立された。1924年(大正13年)に中村が死去した。岩崎と今村が遺志を継ぎ、学園運営に尽力する。池袋から吉祥寺に移転し、1925年(大正14年)、英国パブリックスクールに範を取った(旧制)成蹊高等学校を開設した。戦後の学制改革を経て、(新制)成蹊中学校、成蹊高等学校が誕生し、1949年(昭和24年)、成蹊大学が開学した。

成蹊学園は、中村春二が私塾を開いた1906年ではなく、池袋に成蹊として初めての学校となる成蹊実務学校の設立を創立の起点としている。そのため、2012年をもって創立100周年と数えている。学園創立の淵源は6年前の1906年、東京市本郷区西片町に設立した私塾となる。
年表

年表沿革
1906年中村春二、東京市本郷区西片町の自宅に学生塾を開設(1907年に成蹊園と命名し、1919年まで)
1912年成蹊実務学校を池袋に創立(1927年まで)、現在の豊島区立元池袋史跡公園にその碑がある
1914年旧制成蹊中学校を池袋に創設(1929年まで)
1915年成蹊小学校を池袋に創設
1917年成蹊実業専門学校を池袋に創設(1925年まで)
成蹊女学校を目白に創設(1921年まで)
1919年初等教育・高等普通教育・専門教育を目的とする「財団法人成蹊学園」を設立
1921年成蹊高等女学校創設(1956年まで)
1924年創立者・中村春二死去(2月21日)享年46
小学校・中学校・実務学校・実業専門学校を池袋から吉祥寺へ移転
新校舎「本館」完成(現在の成蹊学園本館)
1925年旧制成蹊高等学校創設、旧制高等学校では数少ない七年制を採用する(1950年まで)
1927年校歌「成蹊の歌」制定(志田義秀 作詞、信時潔 作曲)
1937年学園各校卒業生が同窓会「成蹊会」結成
1942年現・成蹊気象観測所が、東京管区気象台より「吉祥寺観測所」の名称で補助観測所に指定(1976年まで)
1945年初代理事長・岩崎小弥太死去(12月2日)享年67
1947年新制成蹊中学校創設
1948年新制成蹊高等学校創設
1949年学制改革に伴い、旧制成蹊高等学校を改組して成蹊大学創設(政治経済学部を設置)
1950年東京四大学(成蹊大学、学習院大学成城大学武蔵大学)の、対抗運動競技大会開始。
1951年財団法人成蹊学園を「学校法人成蹊学園」に改組
現・成蹊気象観測所が中央気象台からモデル気象観測所に認定
1952年政治経済学部に医歯学進学課程(プレメディカルコース)を設置(1964年に廃止)
1956年学園創設に寄与した今村繁三死去(4月19日)享年80
1959年成蹊気象観測所設置
1962年大学工学部を設置
1965年大学文学部を設置
1966年大学院工学研究科を設置
1968年政治経済学部を改組し、経済学部および法学部を設置
1970年大学院経済学研究科、法学研究科を設置
1971年成蹊学園欅並木が武蔵野市の文化財(天然記念物)に指定
大学院文学研究科を設置
1972年大学院経営学研究科を設置
大学院法学研究科を法学政治学研究科と改称
1978年学園祭「成蹊桜祭」開始
1981年大学情報処理センター(2002年まで)、アジア太平洋研究センターを設置
1982年成蹊学園欅並木が都民の日制定30周年記念として「新東京百景」に選ばれる
1988年学園史料館設置
1993年国際交流センターを設置
1996年成蹊学園欅並木が環境庁(現・環境省)の残したい「日本の音風景100選」に認定
1999年学園情報センター設置(2002年、大学情報処理センターを統合)
2000年文学部文化学科を改組し、文学部国際文化学科と文学部現代社会学科を設置
2001年工学部経営工学科を工学部経営・情報工学科に改称
2002年理工学部実験実習棟(大学14号館)が完成
2004年大学院法務研究科(法科大学院)を設置
経済学部経済学科と経済学部経営学科を統合し、経済学部経済経営学科を設置
国際交流センターを改組し、国際教育センターを設置
2005年工学部機械工学科、電気電子工学科、応用化学科、経営・情報工学科、物理情報工学科の工学部5学科を理工学部3学科に改組し、
理工学部物質生命理工学科、情報科学科、エレクトロメカニクス学科を設置
2006年「情報図書館(インテリジェント・ライブラリー)」という新機軸の位置づけによる大学図書館が開館
2007年大学院経済学研究科と経営学研究科を統合し、大学院経済経営研究科を設置
成蹊学園三菱留学生奨学基金創設
大学1・2号館改修
2009年大学院工学研究科を改組し、理工学研究科を設置
成蹊学園本館を改修、400m競技場・ラグビー場を人工芝の全天候対応トラックに改修(けやきグラウンドと命名)
2010年大学に「成蹊教養カリキュラム」を導入
学園情報センターを改組し、情報センター設置
2012年理工学部エレクトロメカニクス学科を理工学部システムデザイン学科に名称変更
成蹊学園創立100周年
2014年大学新6号館が完成
学生会館を改修
2019年文学部英米文学科を文学部英語英米文学科に改称
2020年経済学部経済経営学科を2学部3学科に改組し、経済学部経済数理学科、経済学部現代経済学科、経営学部総合経営学科を設置
副専攻制度スタート


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