成田線
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なお、1983年(昭和58年)8月8日に千葉港と成田空港を結ぶ本格パイプラインが稼動するまでの間は、成田線は千葉港と鹿島港から成田市土屋地先に設けられた基地まで鉄道で航空燃料を輸送(暫定輸送)するルートの一部に用いられていた[8][9][10]

水郷駅 - 小見川駅間の田園地帯を走る209系(千葉県香取市

航空燃料暫定輸送鉄道ルート

本線と支線の変遷

本路線の国有鉄道時代の本線と支線は、佐倉駅 - 成田駅 - 我孫子駅が本線、成田駅 - 松岸駅が支線(その内佐原駅 - 松岸駅間は佐松線という通称があった[注釈 1])と制定されていた。その経緯は、1920年(大正9年)9月に本路線を建設・運営していた成田鉄道を国有化[11]した際、本路線は国有鉄道線路名称1909年明治42年)10月12日に公布された「明治42年鉄道院告示第54号」にて制定[12][13])の「総武線の部」所属の成田線と制定され[11]、区間を佐倉駅 - 成田駅 - 我孫子駅・成田駅 - 佐原駅間(前者が本線、後者が支線)と制定された[14][15]ためであった。その後1933年(昭和8年)3月までに佐原駅から松岸駅まで延伸開業され、支線区間が成田駅 - 松岸駅間となった後も、その扱いについては変化がなかった[16][17][18][19][20][21]

1987年(昭和62年)4月の国鉄分割民営化時に当時の運輸省(現・国土交通省)に提出された「日本国有鉄道の事業等の引継ぎ並びに権利及び義務の承継等に関する基本計画」(JR事業基本計画)[22]で、本路線を「佐倉から松岸まで及び成田から分岐して我孫子まで」と定めたため、本線と支線の区間を本項冒頭の様に変更、支線の通称名も我孫子支線となり、その後1991年(平成3年)3月に成田駅 - 成田空港駅間の空港支線が加わった[注釈 4]
歴史

成田線の歴史は総武本線の歴史と密接に関係するため、以下では総武本線の歴史も一部記載する。

江戸時代中期以降、江戸っ子に親しまれていた成田山新勝寺の参拝路として整備された成田街道水戸佐倉道、現在の国道14号国道296号国道51号)や東廻り航路として北前船の往来が盛んであった佐原とを結ぶ佐原街道(現在の国道51号)、利根川沿いに整備された銚子街道(現在の国道356号)、千葉の主要な街道として東京湾沿岸地域には房総往還千葉街道、現在の国道14号、国道16号国道127号)が存在していた。

しかし、明治期に入ると近代化により従来の街道国道として明治政府により整備され始め、相対的に佐原の水運が著しく減少した。それと同時期の1872年(明治5年)には東海道線が開通、鉄道敷設運動が日本全国で始まった。この運動に乗じて、千葉県内では1886年(明治19年)頃から馬車鉄道蒸気機関車による鉄道敷設計画が始められた。1887年(明治20年)11月には水運が減少したことによる佐原の将来を危惧し、代替として鉄道での貨物輸送による発展を目指した佐原の伊能権之丞らが発起した武総鉄道会社が設立、一方で同様の理由[注釈 9]から成東の安井理民らが発起した総州鉄道会社が設立されるなど、相次いで鉄道敷設の申請を行った。なお、これらは前述した街道沿いでの敷設を計画した[注釈 10]。しかし、当時は従来からの水上交通の実績に対する評価が高く、また利根運河の開削も決まったばかりだったため、千葉県知事であった船越衛が鉄道敷設に対して慎重になり、両者に対し計画の翻意や合併を促してきた。総州鉄道は東京府知事を通じて正式に出願し、これに対し船越知事もやむなく武総鉄道を内閣に進達したが、「利根江戸両川の水運が至便であるうえに、この地方の状況は鉄道敷設を必要とするほど発展していない」などとして結局却下されている。
1887年(明治20年)11月に申請された計画ルート
武総鉄道株式会社:本所 - 市川 - 船橋 - 千葉 - 佐倉 - 成田 - 佐原総州鉄道株式会社:本所 - 市川 - 船橋 - 千葉 - 佐倉 - 八街 - 芝山 - 八日市 - 銚子

なお、昭和初期までは現在の下志津駐屯地付近から四街道市佐倉市一帯に、旧佐倉藩の砲術練習所を前身とする陸軍野戦砲兵学校や、下志津駐屯地の前身の下志津陸軍飛行学校といった陸軍施設があった。これを利用し、両社とも軍事利用されることを意図して、こうした陸軍営所を経由する鉄道敷設計画を立てた[注釈 11]。なお、双方とも本所(錦糸町駅)が起点であるのは、東京下町の市街地が住宅街で建設が困難と判断し、市街地を網羅していた東京市電と接続することを計画したためである。

上述の経験から、競願の不利益さを悟った両社の発起人は合併を協議し、発起人に利根川水運の株主であった県会議長の池田栄亮などの有力者を加え、1889年(明治22年)1月に総武鉄道株式会社[注釈 12]を創立した。総武鉄道は翌2月に再願を申請した。この時の出願では、利根運河との競合を避けるとともに陸軍の支持が得られるように国府台津田沼佐倉等の軍営所在地を通る以下のルートを採用し、その使命に「軍事輸送と政府開墾地への輸送」を掲げていた。
1889年(明治22年)1月に申請された計画ルート
総武鉄道株式会社:本所 - 市川 - 船橋 - 千葉 - 佐倉 - 八街

総武鉄道の狙い通り「陸軍営所を通過し、用兵上にも便利である」とする陸軍省の意見が決め手となり、1889年(明治22年)4月に仮免状が下付され、同年12月に小岩 - 佐倉間の免許状が降りた。ただし、計画の一部変更などにより、工事着手は1893年(明治26年)8月となる。なお、1892年(明治25年)に公布された鉄道敷設法で「東京府下上野ヨリ千葉県千葉、佐倉ヲ経テ銚子ニ至ル鉄道及本線ヨリ分岐シテ木更津ニ至ル鉄道」が将来建設されるべき鉄道として指定された[注釈 13]。しかし、成田や佐原を経由する鉄道敷設計画に関して軍部は関心を示さなかった。

成田鉄道
種類株式会社
本社所在地 日本
千葉県印旛郡成田町[23]
設立1895年(明治28年)11月][23]
業種鉄軌道業
代表者会長 山田英太郎[23]
資本金2,425,000円[23]
特記事項:上記データは1920年(大正9年)現在[23]
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1894年(明治27年)7月20日に市川駅 - 佐倉駅間が開業し、千葉県内初の鉄道となる。しかし、直後の8月1日に事態は一転した。日清両国で宣戦布告がなされ、即座に総武鉄道は日清戦争での兵員輸送に活用された。これにより軍部は佐原方面への鉄道敷設に関心を持つ。


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