成田空港予定地の代執行
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同年12月26日、県収用委員会は、権利取得の時期及び明渡しの期限を1971年(昭和46年)1月31日とする権利取得裁決及び明渡裁決をした[4][12][17][18]

更に1970年12月28日には、1期工事が建設大臣からの特定公共事業認定を受け[根拠法令 5][12]、損失補償に関して審理を尽していないものがある場合においても明渡裁決が可能となった(緊急裁決)[根拠法令 6]
第一次代執行

前年に県収用委員会が採決した対象地6件について、空港公団は1971年(昭和46年)1月14日から裁定に基づく損失補償金[根拠法令 7]総額190万円の支払いを開始したが、地権者は現金書留の受け取りを拒否し、期限である1月31日を迎えても明け渡されていなかったことから、友納武人千葉県知事は2月2日2月12日までの明け渡しを定めるとともに、それまでに明け渡しがない場合は代執行を行う旨の戒告書を送った[根拠法令 8][12][17][19]。ここでも明け渡しがされなかったことから2月22日から3月14日までに代執行を行う旨の代執行令書が送付された[根拠法令 8][注釈 4][17]

2月22日から代執行が始まると、反対同盟は立ち木バリケードに体を縛り付けて撤去を阻み、予め青年行動隊らが掘り進めていた穴ぐらに決死隊が立て籠もることで代執行を阻害しようとした。また、茨城県の農民運動家である山口武秀の提案により、反対同盟はこれまで反対運動に加わらなかったために敵意を向けていた周辺地域に対してもビラや宣伝カーを使って代執行の現場を見に来るよう呼びかけていたことで、多くの野次馬が集結した。団結小屋に立て籠もる同盟員には、陣中見舞いを持った親戚や友人だけでなく、既に自分の土地を売り渡した条件派も激励に訪れた[21]

代執行初日の22日は、中核派反帝学評などの過激派約2,350人が反対同盟とともにデモ行進・アジ演説・突撃訓練などの示威行為を代執行予定地で繰り返し、代執行は早々に中止された[22]。翌23日も機動隊は投入されず、空港公団は団結小屋に手を出せずに大きな動きがないままに終わった。24日に少年行動隊が代執行実施班に体当たりして押し返し、これに対してガードマン警棒を用いたことで小学4年生の男児と中学3年生の女生徒が負傷して入院した[23]。このような事態と群衆の中に紛れていた支援学生らの扇動を受けて、義憤に駆られた野次馬が投石などの妨害を行うようになり、代執行側の旗色が悪くなった。25日から機動隊が投入されたが野次馬の投石などにより代執行は引き続き進展せず、26日に友納知事が翌27日から3月1日までの代執行の停止を表明したことで仕切り直しとなった[24]

代執行が再開された3月2日も野次馬の妨害[注釈 5]等により代執行の成果は上がらなかったが、翌3日に約3,000人に増強された機動隊が現地に投入され、代執行現場に通じる道での検問を実施して野次馬を阻んだことで形勢が逆転した。大雨が降り関東ロームが溶けて泥濘む中[26]、屈強な公団臨時職員[注釈 6]ら(反対同盟から「毀し屋」と呼ばれた[28])が代執行部隊の先頭に立ち、鎖で身体を括りつけた農民ごと立ち木を切り倒すなど、非情に徹して次々と立ち木や砦を撤去していった。「毀し屋」は木の上の農民を振り落とす際に網を張ったが、網にかからず地面に叩きつけられて骨折する者が続出した。「毀し屋」は構わずになおも作業を続け、その場にいた機動隊員が思わず同情したり止めに入るほどであった[注釈 7][21][30]

4日に代執行が一時停止され、前日の事態を受けた反対派はこの間に火炎瓶を準備して翌日に備えた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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