その後も反対闘争は強化され、ついには死者を出すなど、深刻な社会問題と発展し、現代史に残る三里塚闘争や成田空港問題となる。相次ぐ流血の惨事に成田市では「暴力行為の排除と信仰の町成田の平和と繁栄の為に市民の協力を願う」との主の声明を出す。こうした混乱の中、1978年(昭和53年)5月20日、全国から約13,000人の機動隊員が動員され、厳戒態勢の中、現在の成田国際空港が開港した。
その後、空港関連事業として、東関東自動車道の開通、内陸工業団地、成田ニュータウンが千葉県北総開発局(現・千葉県企業庁)によって造成され、近年ではベッドタウン化が進み、人口も増加したが、現在は頭打ち傾向が顕著となり、人口の減少化が始まった。東京都内中心部に通勤・通学するには遠く、昭和40?50年代に始まったニュータウンは、徐々に空き地が目立ち始めている。また、旧大栄町、下総町で中途半端に開発された宅地造成の多くは、限界ニュータウンと呼ばれ、公共交通が通わず、空き地がほとんどとなっている。また、百貨店や大型ショッピングセンターが市内に立地し、北総地域の商業都市としての一面もある。しかし、政府による空港建設の強行は、地域住民・日本国政府・地方公共団体との間の信頼関係を崩壊させ、用地買収も進まず、成田空港は開港から35年以上経つ今日でも完全開港が成されていない。
沿革成田国際空港の歴史については「成田国際空港#歴史」を、成田空港問題の推移については「成田空港問題の年表」を参照成田山開基1070年祭(2008年)
940年 (天慶 3年) : 成田山新勝寺開山(成田山縁起による)正式名称 成田山明王院新護新勝寺。
1408年(応永15年): 成田村安養寺の聖観音菩薩坐像胎内に「成田郷 応永十五年」の銘が見える。(成田の地名の初見。安養寺の火災により聖観音菩薩は寺台の永興寺に移される。)
1889年(明治22年): 4月1日 町村制施行により成田町、八生村、中郷村、久住村、豊住村、遠山村(下埴生郡)、公津村(印旛郡)の7ヶ町村が誕生。
1897年(明治30年)1月19日: 成田鉄道の佐倉 - 成田が開通。12月29日には成田 - 滑川も開通。
4月1日: 下埴生郡が印旛郡に編入され、成田町以下6町村が印旛郡に属する。
1900年(明治33年): 内務省より、長沼の沼地無償払い下げが認可される(長沼事件)。
1901年(明治34年)4月1日: 成田鉄道の成田 - 我孫子が開通。
1910年(明治43年)成宗電気軌道第1トンネル跡(2012年)
12月11日: 成宗電気軌道の成田山門前 - 成田駅前間開通。成宗電気軌道の火力発電所から一般家庭に電灯用電力の供給が開始される。県下で2番目の電力供給。
1911年(明治44年)7月1日: 千葉県営鉄道多古線の成田 - 三里塚間が開通。10月5日には三里塚 - 多古間が開通。
1914年(大正 3年)5月18日: 千葉県営鉄道八街線の三里塚 - 八街間が開通する。
1920年(大正 9年)9月1日: 成田鉄道が国有化され、成田線と呼称。
1926年(大正15年)12月24日: 京成電気軌道(現・京成電鉄)酒々井 - 花咲町(仮駅)間が開通。
1930年(昭和 5年)4月25日: 京成電気軌道、花咲町 - 京成成田間開業。
1938年(昭和13年)3月28日: 成田山開基一千年祭記念開帳が始まる。(本来は1940年が1千年となるが、紀元2600年という国家的大祭があるため、協賛金・寄付金が少なくなることを避けるため、2年前倒しで実施された)
1954年(昭和29年)3月31日: 成田町、公津村、八生村、中郷村、久住村、豊住村、遠山村が合併し、成田市が誕生する。千葉県内で11番目の市制施行。人口44,724人。
1958年(昭和33年)10月31日: 成田市役所新庁舎落成(それまでは旧成田町役場のものを使用)。
1966年(昭和41年)
6月22日: 佐藤栄作総理大臣(当時)から友納武人県知事(当時)へ、国・県有地を中心に極力民有地の面積を抑えて三里塚に新空港を建設したいとの協力要請がされる。突然の内定に建設予定地は大混乱に陥る。
6月25日: 県知事から藤倉武男成田市長(当時)に三里塚に新空港を建設したいと正式に協力を要請。同日、三里塚小学校にて新空港説明会を実施。大混乱となる。
7月4日: 新東京国際空港の位置及び規模について閣議決定。空港の建設予定地が千葉県成田市三里塚の宮内庁下総御料牧場周辺に決定する。成田市議会が新空港反対決議を採択(賛成17・反対5・白票3)。
7月12日: 県は空港建設に伴う移転や、土地売買に関する相談を受け付ける「千葉県国際空港相談所」を開設する。
8月2日: 成田市議会、新空港反対決議を白紙撤回。
1967年(昭和42年)6月27日: 大橋武夫運輸大臣(当時)が成田入り、反対派が国鉄成田駅を占拠する。
1968年(昭和43年)
1月29日: 甚兵衛大橋が開通。甚兵衛渡しが役目を終える。
2月15日: 長豊橋が完成。これにより成田-江戸崎線が開通。茨城県と橋で繋がる。
3月26日: 国鉄千葉 - 成田間が電化。
1969年(昭和44年)
3月: 印旛沼開発事業竣工。
5月7日: 国道51号線(佐倉 - 佐原間)が6年の歳月をかけ舗装化。
1970年(昭和45年)
4月28日: 資材輸送専用線(国鉄成田駅から分岐、大株から土屋地先に至る約2.9キロメートル)が一部開通(全通は8月31日)。
8月18日: 新東京国際空港建設に伴い下総御料牧場閉場。以降空港建設反対運動が激化する。
8月21日: 押畑に市総合運動場の第1期施設工事として大谷津運動公園野球場が開場。6万7000平方メートルを造成して建設された。
1972年(昭和47年)
4月1日: 成田ニュータウンへの入居が始まる。
8月19日 :新空港自動車道(現・東関東自動車道) 富里IC - 成田IC間供用開始。
11月25日: 京成電鉄、京成成田駅 - 成田空港駅(現・東成田駅)間完成。
12月21日: 成田用水事業が国営事業として水資源開発公団により始まる。
1973年(昭和48年)
4月30日: 成田空港A滑走路(4,000メートル)完成。
10月14日: 成田ニュータウンに中台運動公園がオープン。中台運動公園野球場が開場。
10月15日 - 10月18日: 第28回国民体育大会(若潮国体秋季大会)の軟式野球(一般軟式)会場(大谷津運動公園野球場、中台運動公園野球場、成田高等学校野球場、西中学校野球場、中台中学校グラウンド)となる。
1974年(昭和49年)
6月4日: 成田市公設地方卸売市場(青果部)開場。
10月28日: 成田市は、空港関連事業の予算見通しが立たなくなり、財政困難に陥る。「非常事態宣言」を発令し財政再建対策委員会を設置。(成田空港開港と共に解消。以後好転に向かう。)
1975年(昭和50年)3月28日: 市制20周年記念事業として、成田国際文化会館が開館。
1978年(昭和53年)
4月1日: いずみ清掃工場が開設。収集日が週3日になる。
5月12日: 新東京国際空港の安全確保に関する緊急処置法(現:成田国際空港の安全確保に関する緊急措置法)成立。
5月20日: 空港開港、翌日より運行開始。
5月21日: 京成スカイライナーが成田空港駅(現東成田駅)乗り入れ。新空港自動車道 成田IC - 新空港IC間供用開始。
1980年(昭和55年)5月1日: 成田用水の幹線がほぼ完成。暫定通水開始。翌年本格通水。
1981年(昭和56年)2月: 国道51号の成田橋が全面開通。
1983年(昭和58年)6月: 千葉県は「千葉新産業三角構想」を策定し、成田市、千葉市、木更津市、の3市を核都市とした。
1984年(昭和59年)10月27日: 市制30周年記念事業として、成田ニュータウン赤坂地区に市立図書館が開館。
1985年(昭和60年)2月27日: 東関東自動車道成田IC - 大栄IC間供用開始。
1986年(昭和61年)
2月24日: 国鉄成田線、佐倉 - 成田間が複線化。
3月24日: 成田市、佐倉市、栄町、芝山町が国の国際観光モデル地区に指定。
4月6日 国鉄成田駅西口広場が供用開始。
「第4次首都圏基本計画」において、成田広域連携拠点として業務核都市に指定される。
1988年(昭和63年)
4月28日 - 5月28日: 成田山開基1050年祭記念開帳。
9月14日: 咸陽市と友好都市提携に調印。
11月7日: 成田市役所新庁舎落成。