成田市
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『万葉集』「第20巻4392番」より和歌の詳細については、以下を参照[12][13]。『万葉集』「第20巻4392番」より(原文)阿米都之乃 以都例乃可美乎 以乃良波加 有都久之波々尓 麻多己等刀波牟(和歌)天地のいづれの神を祈らばか愛し母にまた言とはむ(訳)天の神、地の神、どの神に祈ったら、いとしい母に、また話しができるのでしょうか。

成田の文字が確認されるのは、1408年(応永15年)成田村安養寺(現在は永興寺安置)の聖観音菩薩坐像胎内に「成田郷 応永十五年」の銘がみえる。940年(天慶3年)承平天慶の乱(平将門の乱)が平定され、新勝寺が創建されたと同寺縁起(制昨年不明)では記される。
江戸時代下総御料牧場事務所(三里塚御料牧場記念館)

江戸時代中期、成田は門前町としての色を濃くしていった。参拝者の増加と共に、飯屋や居酒屋などが次第に専業化していった。記録[要文献特定詳細情報]によると、1701年(元禄14年)には旅籠が1件もない農村であったが、1843年(天保14年)には旅籠32軒となっている。煙草、刀剣の研、髪結、提灯、蝋燭、傘、下駄屋などがあり、江戸との間を結ぶ成田街道をはじめ、利根川の木下河岸(きおろしがし・現印西市)、常陸国を結ぶ滑川河川、香取・佐原・芝山・九十九里などを結ぶ道などが集中する交通の要衝として栄え、参拝者以外の旅人でも賑わった。1881年(明治14年)6月および1882年(明治15年)6月に、明治天皇が千葉県下の下総種畜場(後の宮内庁下総御料牧場)へ行幸する際に成田山を行在所(あんざいしょ)と定めた。境内には「明治天皇成田行在所」の碑が建てられている。

1871年(明治4年)に旧成田市域は印旛県に属し、1873年(明治6年)千葉県に統合された。1876年(明治9年)の大区小区制では、第10区11-16小区に属す。明治11年、埴生郡下埴生郡と改称。印旛郡公津新田が八生村に、下埴生郡成木新田が公津村に編入され、1897年(明治30年)下埴生郡が印旛郡へと編入され、旧市域はすべて印旛郡となる。

江戸時代に佐倉七牧と呼ばれた馬の放牧地があり、明治時代に入るとその内の一牧「取香牧」(現・成田市取香・三里塚付近)に牧羊場が開場した。以後、宮内庁管轄となり下総御料牧場の基礎輸入牝馬で知られる「下総御料牧場」となる。この頃から下総台地の佐倉牧や小金牧などで開墾が行われ始め、成田の「十余三」はその13番目の開墾地名である。
成田山信仰成田山新勝寺「明治天皇成田行在所」

明治以後は観光の振興に力を入れ、交通の整備が急速に進んだ。それ以前は東京から成田まで片道二日の行程が普通であったが、乗合馬車の整備により半日で到達可能になった。また鉄道敷設の気運が高まり、1901年(明治34年)成田鉄道(初代)により成田 - 我孫子(現・成田線)が開通、日本鉄道(現・常磐線)と接続し上野駅に直結させた。1910年(明治43年)には、成宗電気軌道(現千葉交通の前身)により成田門前 - 成田駅に県下初の電気軌道が運行を開始する。大正末期には、成田駅の乗降客数は千葉駅に次ぐ千葉県内第2位まで増加した。

明治期の成田は成田山参詣の恩恵を受け、特に活気に満ちていた。しかし急速に交通網が整備されたため、参詣客が増加する反面日帰り客の増加を招き、旅館業者の宿泊客が奪われ、転業するものが増えた。もっとも産業自体は活気に満ちており、この頃登場し、現在でも成田名物として有名な「栗ようかん」など、薬、酒、たばこ、飲食、料理、土産物屋などが参道に店を連ねた。町の発展に伴い、千葉郡にあった物産陳列館も成田町に移され、町立千葉県物産館が開館した。また成田町には佐倉警察署成田分署、佐倉裁判所成田出張所、成田郵便局、大日銀行、九十八銀行、各保険会社の代理店などが置かれ、現市域の中枢としての機能を有していた。

大正時代に入り、第一次世界大戦によってもたらされた活況や、その反動により起こった恐慌にも成田の参詣客数には関係なく、宿泊客数も増加した。この頃から、成田瓦斯会社(後に成宗電気軌道に合併)によって、市内にガス灯が灯るようになる、しかし、成宗電気軌道による電灯用電気供給により、以後ガス灯を圧倒していった。成田の経済を象徴するものとして、この頃成田銀行が一時経営不振に陥るが、その後川崎銀行の元で経営を再建、市内の中小銀行を併合し「総武銀行」、「千葉合同銀行」と改称、後に現在の「千葉銀行」となる。大正期、成田は第二次世界大戦前のピークを形作る。

昭和初期には「高くて、まずくて、不親切」と不評[誰に?]を買っていた、参道商店街がこの評判を払しょくするため、電車内での客引きを禁止したり、強引な呼び込みをやめるため、店舗前での呼び込みは1名、女性に限るなどの自浄作戦を展開するまでになった。

戦時中、『江戸時代、成田山の仁王門再建工事をしていた大工"辰五郎"が誤って高い足場から転落したが、成田山の焼印を押したお守りが二つに割れ、お不動様の霊験により軽い怪我で助かった』という伝承が伝わり、出兵兵士達の間で成田山の「身代わり札」が流行した。太平洋戦争末期、戦争の長期化により物資の不足が深刻化すると、成田山公園に設置されていた銅像やようかんの看板、不要不急線として成田鉄道(2代)の鉄道線(多古線)、次いで軌道線(旧成田電気軌道[成宗電気軌道])が廃線となり国に供出された。また、市内に直接的な空襲被害はなかったが、1945年(昭和20年)2月、八生国民学校校舎に米軍機が撃墜され墜落。校舎が全焼する事件が起き、米兵の引渡し騒動など一部混乱はおきたが特に害はなかった。1945年(昭和20年)8月15日、終戦を迎えたが相次ぐ凶作や急激な物価高騰の影響を受けて戦時下より一層生活困窮に陥った。また、消息不明未帰還者が相次ぐなど、市内にも戦争の残した爪跡は決して少くなかった。

終戦後は成田地域の百姓らは東京圏への行商をするものが多く現れた。一部は、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}あくどい商売を行い上質な着物一反と腐った芋を交換するなど、成田の評判を落とした行商人[要出典]もいた。
成田市の誕生と空港建設

成田国際空港#歴史も参照)成田国際空港

終戦後、1953年(昭和28年)に町村合併促進法が制定され、翌年の1954年(昭和29年)3月31日、成田町、公津村中郷村久住村豊住村遠山村の1町6村が合併し、(旧)成田市が誕生する。成田は田園観光都市として、農業を中心とした都市形態であったが、1966年(昭和41年)6月22日の新東京国際空港建設計画(三里塚案)の発表、それに続く佐藤栄作内閣による7月4日の閣議決定(空港の位置及び規模について)によって町は一変することになる。

空港建設の決定に伴い、市議会は即時空港建設反対の決議をしたものの、翌月には決議を白紙に戻し、空港建設を積極的に協力する姿勢を打ち出した。しかし計画地近辺の地元住民らを中心に、何の説明もなく意見を無視し国家権力を振りかざした新空港建設に、激しい憤りの声が挙がった。市民の間では空港建設に対して賛否がわかれ、閣議決定に前後し、地元の約1千戸、3千人もの住民によって三里塚芝山連合空港反対同盟が結成。

1968年(昭和43年)3月10日には、反日共系全学連などと共に決起集会(第2次成田デモ事件)が行われ、警察との間で激しい衝突が繰り返された。市役所には有刺鉄線を使ったバリケードが設けられたほか、商店はショーウィンドウをトタン板で囲い学生と警察との衝突に備えるなど市民生活にも影響が出るようになった[14]

その後も反対闘争は強化され、ついには死者を出すなど、深刻な社会問題と発展し、現代史に残る三里塚闘争成田空港問題となる。相次ぐ流血の惨事に成田市では「暴力行為の排除と信仰の町成田の平和と繁栄の為に市民の協力を願う」との主の声明を出す。こうした混乱の中、1978年(昭和53年)5月20日、全国から約13,000人の機動隊員が動員され、厳戒態勢の中、現在の成田国際空港が開港した。

その後、空港関連事業として、東関東自動車道の開通、内陸工業団地、成田ニュータウンが千葉県北総開発局(現・千葉県企業庁)によって造成され、近年ではベッドタウン化が進み、人口も増加したが、現在は頭打ち傾向が顕著となり、人口の減少化が始まった。東京都内中心部に通勤・通学するには遠く、昭和40?50年代に始まったニュータウンは、徐々に空き地が目立ち始めている。また、旧大栄町、下総町で中途半端に開発された宅地造成の多くは、限界ニュータウンと呼ばれ、公共交通が通わず、空き地がほとんどとなっている。また、百貨店や大型ショッピングセンターが市内に立地し、北総地域の商業都市としての一面もある。しかし、政府による空港建設の強行は、地域住民・日本国政府・地方公共団体との間の信頼関係を崩壊させ、用地買収も進まず、成田空港は開港から35年以上経つ今日でも完全開港が成されていない。
沿革成田国際空港の歴史については「成田国際空港#歴史」を、成田空港問題の推移については「成田空港問題の年表」を参照成田山開基1070年祭(2008年)

940年天慶 3年) : 成田山新勝寺開山(成田山縁起による)正式名称 成田山明王院新護新勝寺。

1408年応永15年): 成田村安養寺の聖観音菩薩坐像胎内に「成田郷 応永十五年」の銘が見える。(成田の地名の初見。安養寺の火災により聖観音菩薩は寺台の永興寺に移される。)

1889年明治22年): 4月1日 町村制施行により成田町、八生村中郷村久住村豊住村遠山村下埴生郡)、公津村印旛郡)の7ヶ町村が誕生。


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