猛暑日(35℃以上)最多日数:9日(2022年)
冬日(0度未満)最多日数:86日(2011年)
成田市における平均月別気温と平均降水量
成田空港(1981-2010)の気候
月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年
平均最高気温 °C (°F)9.2
(48.6)9.7
(49.5)12.7
(54.9)18.0
(64.4)21.8
(71.2)24.2
(75.6)28.1
(82.6)30.0
(86)26.2
(79.2)21.1
(70)16.4
(61.5)11.8
(53.2)19.1
(66.4)
平均最低気温 °C (°F)?2.4
(27.7)?1.5
(29.3)2.0
(35.6)7.2
(45)12.1
(53.8)16.3
(61.3)20.3
(68.5)21.8
(71.2)18.7
(65.7)12.3
(54.1)5.7
(42.3)0.0
(32)9.4
(48.9)
降水量 mm (inch)61.8
(2.433)62.9
(2.476)115.6
(4.551)116.6
(4.591)119.6
(4.709)144.9
(5.705)123.2
(4.85)117.2
(4.614)214.8
(8.457)202.1
(7.957)99.8
(3.929)50.7
(1.996)1,429.1
(56.264)
出典:成田航空地方気象台[11]
隣接している自治体
印西市
富里市
香取市
印旛郡 : 栄町、酒々井町
香取郡 : 神崎町、多古町※
山武郡 : 芝山町
茨城県稲敷郡 : 河内町
※成田市内に香取郡多古町一鍬田の飛地が存在する。 成田(なりた)の地名の由来には諸説あり などの説がある。 ※成田市の歴史と、旧下総町・大栄町の歴史とは別項目にわけることとする。船塚古墳(前方後方墳) 成田付近には旧石器時代の約3万年前から人間が居住していたことが、空港建設に伴う発掘調査(新東京国際空港No.55遺跡(古込))によって判明し、発掘された楕円形石斧は千葉県内最古の遺物として位置づけられている。 縄文時代の南羽鳥中岫第1遺跡では、人頭形土製品などが出土し、国の重要文化財に指定されている。また関東地方最後の大貝塚である荒海貝塚などがあり、縄文時代最後の土器とされる「荒海式土器」が発掘され、国立歴史民俗博物館(佐倉市)の調査では稲作の可能性が明らかにされている。西暦3世紀終わり頃の古墳時代、市内には多くの古墳が出現した。近隣の龍角寺古墳群や日吉倉古墳群を含め、約340基の古墳が存在する。成田市は、水運に恵まれ、大和王権にとっては、重要なルート上に位置し、政治・軍事・経済上重要な地域だったとされる。市域では、成田ニュータウンに位置する船塚古墳が全国的に有名であり、周堀と土堤をめぐらした完全な姿は偉容である。また、古墳用の埴輪を焼いた登り窯(公津原埴輪窯跡)が古墳のすぐ近くで発見されたが、成田ニュータウンの造成により消滅した。千葉県内には他にもう1ヵ所、木更津市畑沢に畑沢埴輪窯跡が発掘されたのみで、貴重な遺跡であった。古文書に成田市域の地名が出るのは755年『万葉集』に「印波郡丈部直大歳、埴生郡大伴部麻与佐」の歌がみえる。埴生郡(はにふのこほり)は、成田市近辺と推測される。 『万葉集』「第20巻4392番」より和歌の詳細については、以下を参照[12][13]。『万葉集』「第20巻4392番」より(原文)阿米都之乃 以都例乃可美乎 以乃良波加 有都久之波々尓 麻多己等刀波牟(和歌)天地のいづれの神を祈らばか愛し母にまた言とはむ(訳)天の神、地の神、どの神に祈ったら、いとしい母に、また話しができるのでしょうか。 成田の文字が確認されるのは、1408年(応永15年)成田村安養寺(現在は永興寺安置)の聖観音菩薩坐像胎内に「成田郷 応永十五年」の銘がみえる。940年(天慶3年)承平天慶の乱(平将門の乱)が平定され、新勝寺が創建されたと同寺縁起(制昨年不明)では記される。 江戸時代中期、成田は門前町としての色を濃くしていった。参拝者の増加と共に、飯屋や居酒屋などが次第に専業化していった。記録[要文献特定詳細情報]によると、1701年(元禄14年)には旅籠が1件もない農村であったが、1843年(天保14年)には旅籠32軒となっている。煙草、刀剣の研、髪結、提灯、蝋燭、傘、下駄屋などがあり、江戸との間を結ぶ成田街道をはじめ、利根川の木下河岸(きおろしがし・現印西市)、常陸国を結ぶ滑川河川、香取・佐原・芝山・九十九里などを結ぶ道などが集中する交通の要衝として栄え、参拝者以外の旅人でも賑わった。1881年(明治14年)6月および1882年(明治15年)6月に、明治天皇が千葉県下の下総種畜場(後の宮内庁下総御料牧場)へ行幸する際に成田山を行在所(あんざいしょ)と定めた。境内には「明治天皇成田行在所」の碑が建てられている。 1871年(明治4年)に旧成田市域は印旛県に属し、1873年(明治6年)千葉県に統合された。1876年(明治9年)の大区小区制では、第10区11-16小区に属す。明治11年、埴生郡は下埴生郡と改称。印旛郡公津新田が八生村に、下埴生郡成木新田が公津村に編入され、1897年(明治30年)下埴生郡が印旛郡へと編入され、旧市域はすべて印旛郡となる。 江戸時代に佐倉七牧と呼ばれた馬の放牧地があり、明治時代に入るとその内の一牧「取香牧」(現・成田市取香・三里塚付近)に牧羊場が開場した。以後、宮内庁管轄となり下総御料牧場の基礎輸入牝馬で知られる「下総御料牧場」となる。この頃から下総台地の佐倉牧や小金牧などで開墾が行われ始め、成田の「十余三」はその13番目の開墾地名である。 明治以後は観光の振興に力を入れ、交通の整備が急速に進んだ。それ以前は東京から成田まで片道二日の行程が普通であったが、乗合馬車の整備により半日で到達可能になった。また鉄道敷設の気運が高まり、1901年(明治34年)成田鉄道(初代)により成田 - 我孫子(現・成田線)が開通、日本鉄道(現・常磐線)と接続し上野駅に直結させた。1910年(明治43年)には、成宗電気軌道(現千葉交通の前身)により成田門前 - 成田駅に県下初の電気軌道が運行を開始する。大正末期には、成田駅の乗降客数は千葉駅に次ぐ千葉県内第2位まで増加した。 明治期の成田は成田山参詣の恩恵を受け、特に活気に満ちていた。しかし急速に交通網が整備されたため、参詣客が増加する反面日帰り客の増加を招き、旅館業者の宿泊客が奪われ、転業するものが増えた。もっとも産業自体は活気に満ちており、この頃登場し、現在でも成田名物として有名な「栗ようかん」など、薬、酒、たばこ、飲食、料理、土産物屋などが参道に店を連ねた。町の発展に伴い、千葉郡にあった物産陳列館も成田町に移され、町立千葉県物産館が開館した。また成田町には佐倉警察署成田分署、佐倉裁判所成田出張所、成田郵便局、大日銀行、九十八銀行、各保険会社の代理店などが置かれ、現市域の中枢としての機能を有していた。 大正時代に入り、第一次世界大戦によってもたらされた活況や、その反動により起こった恐慌にも成田の参詣客数には関係なく、宿泊客数も増加した。この頃から、成田瓦斯会社(後に成宗電気軌道に合併)によって、市内にガス灯が灯るようになる、しかし、成宗電気軌道による電灯用電気供給により、以後ガス灯を圧倒していった。成田の経済を象徴するものとして、この頃成田銀行が一時経営不振に陥るが、その後川崎銀行の元で経営を再建、市内の中小銀行を併合し「総武銀行」、「千葉合同銀行」と改称、後に現在の「千葉銀行」となる。大正期、成田は第二次世界大戦前のピークを形作る。 昭和初期には「高くて、まずくて、不親切」と不評[誰に?]を買っていた、参道商店街がこの評判を払しょくするため、電車内での客引きを禁止したり、強引な呼び込みをやめるため、店舗前での呼び込みは1名、女性に限るなどの自浄作戦を展開するまでになった。 戦時中、『江戸時代、成田山の仁王門再建工事をしていた大工"辰五郎"が誤って高い足場から転落したが、成田山の焼印を押したお守りが二つに割れ、お不動様の霊験により軽い怪我で助かった』という伝承が伝わり、出兵兵士達の間で成田山の「身代わり札」が流行した。太平洋戦争末期、戦争の長期化により物資の不足が深刻化すると、成田山公園に設置されていた銅像やようかんの看板、不要不急線として成田鉄道(2代)の鉄道線(多古線)、次いで軌道線(旧成田電気軌道[成宗電気軌道])が廃線となり国に供出された。また、市内に直接的な空襲被害はなかったが、1945年(昭和20年)2月、八生国民学校校舎に米軍機が撃墜され墜落。校舎が全焼する事件が起き、米兵の引渡し騒動など一部混乱はおきたが特に害はなかった。
歴史
地名の由来
昔から雷が多い為、雷の良く鳴る田「鳴田(なるた)」→「成田」とされる説。
稲の出来が良い土地の為「熟田(なりた)」→「成田」とされる説。
最近の研究では、開墾を行い、なりわい(なりわい業)の田「業田(なりた)」→「成田」
前史(古代)
江戸時代下総御料牧場事務所(三里塚御料牧場記念館)
成田山信仰成田山新勝寺「明治天皇成田行在所」