成田山新勝寺
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元禄16年(1703年) - 新勝寺が、江戸永代寺八幡宮にて初めての出開帳を行う[8]。
宝永2年(1705年) - 佐倉藩主・稲葉正通が、成田村囲護台の新畑50石を、新勝寺に寄進する[8]。
宝永3年(1706年) - 江戸弥勒寺末より離れる。
宝永4年(1707年) - 大覚寺末に転ずる。
正徳2年(1712年) - 三重塔の建立。
享保7年(1722年) - 一切経堂の建立。
時期不詳 - 5代目市川團十郎(1741年-1806年)が、歌舞伎演目『暫』の口上に「中央大日大聖不動、成田は先祖の産神にて…」という台詞を初めて取り入れたという。
文政12年(1829年) - 二宮尊徳が、新勝寺に参詣する[8]。
天保2年
3月(1832年4月頃) - 「身代わり札」由緒の事故の発生/仁王門の棟上式の直前、大工の辰五郎が高所の足場から落ちたが、新勝寺の守り札が身代わりになって真っ二つに割れ、本人は怪我一つなかったという。
4月か(1832年5月頃) - 仁王門(現存)の建立。
天保13年(1842年) - 奢侈禁止令に触れた7代目市川團十郎が、新勝寺の地続きの延命院に寓居する[8]。
嘉永5年(1852年) - 成田村にて大火あり、120軒の焼失[8]。
安政5年(1858年) - 古い本堂(現・光明堂)に替わる新たな本堂(現・釈迦堂)の建立[8]。
文久元年(1861年) - 額堂の建立。
明治時代
1873年(明治6年) - 成田山新勝寺の深川出開帳が行われる[8]。
1900年(明治33年)
1月11日 - 小松宮彰仁親王が農水産連合品評会総裁として参詣する[9]。
2月15日 - 高浜虚子が参詣する[10]。
9月8日 - 正岡子規が請われて成田山句会の催主となる[10]。
1901年(明治34年) - 山内に俳句結社の蛍雪会が結成される[11]。
1902年(明治35年) - 大隈重信ら18人が参詣する[12]。
1903年(明治36年) - 北白川宮成久王、久邇宮稔彦王、久邇宮鳩彦王が参詣する[9]。
大正時代
1925年(大正14年) - 第18世住職・荒木照定が、初の海外視察を行う/場所はロンドン。
昭和時代
1928年(昭和3年) - 欧米偏重の風潮を嘆く荒木照定が、新更会を結成。
中山競馬・千葉県観光案内地図(昭和5年) 成田不動がイラスト入りで紹介されている
1938年(昭和13年) - 成田山開基一千年祭の開催。1940年(昭和15年)が千年であるが、国家の一大行事である皇紀2600年の大典が執り行われるため、国家行事と重なることにより、寄付金・寄付者が少なくなるのを避けるため、前倒しして千年祭を実施した。海軍機を納し、陸軍機「新勝号」の命名式を執り行う。
1943年(昭和18年) - 当寺が、奥の院境内より伐採した1000本の木材を、造船用材として日本海軍に献納する。
1944年(昭和19年) - 日本海軍水路部が、当寺の新更会館(現・霊光館)へ移駐する。
1946年(昭和21年) - 当寺が大本山へ昇格。
1960年(昭和35年)5月 - 新勝寺の縁起地である尾垂浜(千葉県山武郡横芝光町尾垂浜)にて、寛朝大僧正の聖蹟顕彰を旨とした「成田山不動尊の上陸記念碑」の造立。
1964年(昭和39年)5月26日 - 本尊の木造不動明王及二童子像が、「木造不動明王及二童子像(本堂安置)」の名称で、国の重要文化財に指定される[6]。
1965年(昭和40年)6月18日-三重塔わきに建っていた第一額堂(三升額堂)が心無い一成田市在住の青年の放火により全焼。成田市では国宝である法隆寺金堂の火災により制定された1月26日の全国統一の文化財防火デーではなく、6月18日に市独自で文化財防火デーとしている。
1968年(昭和43年) - 古い本堂(現・釈迦堂)に替わる新たな本堂「大本堂」の建立[8]。
1975年(昭和50年) - 境内にて、光輪閣の建立。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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