成田山新勝寺
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明暦元年(1655年) - 成田村の新勝寺(当寺)にて、本堂(現・薬師堂)の建立[8]

延宝2年(1674年) - 徳川光圀が、江戸藩邸への帰路、成田村の新勝寺に参詣する[8]

貞享4年(1687年) - 歌舞伎役者初代市川團十郎が、成田山新勝寺の薬師堂(本堂)に通って、一心に求子祈願を行う/当世を代表する千両役者となった團十郎ではあったが、子宝には恵まれず、市川宗家本貫の近傍にあって以前から篤く信仰していた新勝寺に頼った。

元禄元年(1688年) - 初代市川團十郎の祈願が成就し、長男・九蔵(長じての2代目團十郎)を授かる。團十郎は新勝寺の霊験を大いに喜ぶ。

元禄8年(1695年) - 初代市川團十郎が『成田山不動明王』を初演し、自ら不動明王を演じる/これは、歌舞伎演目として初めて不動明王を主題としたもので、求子祈願を叶えてくれた「お不動様」とその寺への感謝と信仰に裏打ちされた作品であった。この上演を機に市川家は「成田屋」を屋号として使い始める。以来、不動明王役は歴代團十郎の十八番となる。

元禄11年(1698年)頃 - 初代市川團十郎と10歳になった九蔵が中村座にて親子共演で『兵根元曽我つわもの こんげんそが』を初演/不動明王を主題としたこの芝居も大当たりし、團十郎親子は新勝寺に大神鏡を奉納する。以来、この演目はたびたび上演されることとなる。初代團十郎が寄せるようになった篤い信仰と実体験に材を採って発想された演目は、成田山新勝寺の名を大いに高める結果となり、新勝寺は、團十郎を通じて知った霊験と観光を目当てに詣でる大勢の信徒と顧客を獲得し、このような「成田詣で」の賑わいに応じて、寺は伽藍などを、周辺地域は門前町を充実させてゆくという、隆盛と観光地化の時代を迎えることとなる。

元禄14年(1701年) - 古い本堂(現・薬師堂)に替わる新たな本堂(現・光明堂)の建立[8]

元禄16年(1703年) - 新勝寺が、江戸永代寺八幡宮にて初めての出開帳を行う[8]

宝永2年(1705年) - 佐倉藩主・稲葉正通が、成田村囲護台の新畑50石を、新勝寺に寄進する[8]

宝永3年(1706年) - 江戸弥勒寺末より離れる。

宝永4年(1707年) - 大覚寺末に転ずる。

正徳2年(1712年) - 三重塔の建立。

享保7年(1722年) - 一切経堂の建立。

時期不詳 - 5代目市川團十郎(1741年-1806年)が、歌舞伎演目『』の口上に「中央大日大聖不動、成田は先祖の産神にて…」という台詞を初めて取り入れたという。

文政12年(1829年) - 二宮尊徳が、新勝寺に参詣する[8]

天保2年

3月(1832年4月頃) - 「身代わり札」由緒の事故の発生/仁王門棟上式の直前、大工の辰五郎が高所の足場から落ちたが、新勝寺の守り札が身代わりになって真っ二つに割れ、本人は怪我一つなかったという。

4月か(1832年5月頃) - 仁王門(現存)の建立。


天保13年(1842年) - 奢侈禁止令に触れた7代目市川團十郎が、新勝寺の地続きの延命院に寓居する[8]

嘉永5年(1852年) - 成田村にて大火あり、120軒の焼失[8]

安政5年(1858年) - 古い本堂(現・光明堂)に替わる新たな本堂(現・釈迦堂)の建立[8]

文久元年(1861年) - 額堂の建立。

明治時代

1873年明治6年) - 成田山新勝寺の深川出開帳が行われる[8]

1900年(明治33年)

1月11日 - 小松宮彰仁親王が農水産連合品評会総裁として参詣する[9]

2月15日 - 高浜虚子が参詣する[10]

9月8日 - 正岡子規が請われて成田山句会の催主となる[10]


1901年(明治34年) - 山内に俳句結社の蛍雪会が結成される[11]

1902年(明治35年) - 大隈重信ら18人が参詣する[12]

1903年(明治36年) - 北白川宮成久王久邇宮稔彦王久邇宮鳩彦王が参詣する[9]

大正時代

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