永禄年間(永禄9年〈1566年頃〉と考えられるが未詳)に成田村一七軒党代表の名主が不動明王像を背負って遷座し、伽藍が建立された場所が、現在の成田市並木町にある「不動塚」周辺と伝えられ、成田山発祥の地と言われている。その後、新勝寺は戦国期の混乱の中で荒廃し、江戸時代までは寂れ寺となっていた。
江戸時代に入って世情が落ち着くと伽藍が再建・整備され、江戸に近いことから参詣者が増えるとともに、江戸で成田不動の出開帳が度々行われた。元禄16年(1703年)、深川永代寺(富岡八幡宮の別当寺で、廃仏毀釈により廃寺となったが、塔頭寺院が1896年〈明治29年〉に名跡を再興した)で行われたのが初めで、江戸時代を通じて12回の出開帳が行われた記録がある。歌舞伎役者の初代市川團十郎が成田不動に帰依して「成田屋」の屋号を名乗り、不動明王が登場する芝居を打ったことなどもあいまって、成田不動は庶民の信仰を集め、成田参詣が盛んとなる。
明治維新以降、新勝寺はお札を通じて、戦時下の人々の精神的な助けとなった。当寺の「身代わり札」は「鉄砲玉から身を守る札」として日清戦争当時から軍人らに深く信仰されていた。満州事変から1945年(昭和20年)の敗戦に至るまで、『成田市史年表』から拾い出すだけでも、1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)までの間に、歩兵第57連隊の兵士や近衛兵たちが10回以上も参拝し、武運長久を祈願、お札を身につけている。第18世住職・荒木照定は1928年(昭和3年)に新更会を設立、『成田町報』などを通じ、地域の民衆に対する日本古来の伝統的思想の教化を積極的に行った。日中戦争が激化していた1938年(昭和13年)には陸海軍に「新勝号」「成田山号」と名づけた戦闘機を献納している。また、真珠湾攻撃の翌日にはそれぞれに当時の額で10万円を献納するなど、新勝寺は積極的に協力した。
寺の開基1000年でもある1940年、10年に一度の大開帳は、国家の一大イベントとなる行事である紀元二千六百年記念行事と重なるのを回避し、経済的に不利な状況(すなわち寄付の不足)になることを避けるため、二年前倒しされた。これより2018年の開基1080年を含めて現在まで、大開帳は開山の周年と二年ずれることになる[5]。
本尊として安置されている不動明王及二童子像は、1964年(昭和39年)5月26日に国の重要文化財に指定された[6]。寺では平安時代の空海作としているが、鎌倉時代後期(13世紀?14世紀)の製作である[7]。
2007年(平成19年)11月28日、着工から3年8か月をかけたケヤキ造りの総門(高さ15m, 桁行14m, 梁行8m)が完成。
年表
出典1 - (外部リンク)“ ⇒成田山の歴史”. 大本山 成田山(公式ウェブサイト). 成田山新勝寺. 2018年4月15日閲覧。
出典2 - (外部リンク)“ ⇒特集 市川團十郎と成田山のお不動さま”. 大本山 成田山(公式ウェブサイト). 成田山新勝寺. 2018年4月15日閲覧。
出典3 - (外部リンク)“ ⇒成田山と団十郎”. FEEL成田(公式ウェブサイト). 成田市観光協会. 2018年4月15日閲覧。
平安時代
(伝)大同5年/弘仁元年(810年、平安時代前期) - 空海(弘法大師)が、嵯峨天皇の勅願により、木造不動明王坐像を敬刻・開眼する/129年後、この像が寛朝僧正[* 1]の手で下総国にもたらされ、平将門を調伏したうえで新勝寺の本尊となったとされる。
天慶2年(平安時代中期)
1月(939年2月頃[* 2]) - 寛朝が、朱雀天皇より平将門の乱平定のための将門調伏祈願を旨とする「治乱の護摩を修法せよ」との密勅を賜る。
某月 - 天皇から宝剣を賜り、高雄山(神護寺)護摩堂の不動明王(木造不動明王坐像)を捧持した寛朝が、平安京を発ち、総国へ下向する。
天慶3年(940年)
1月 - 寛朝が、難波津経由の海路で、上総国の尾垂浜(房総半島の海浜で、現在の千葉県山武郡横芝光町尾垂浜)に上陸。
推定1月24日?確定2月14日(推定3月5日?確定3月25日)[* 3] - 寛朝が、下総国公津ヶ原にて、乱の続いた21日間に亘って将門調伏祈願の不動護摩供を奉修する。