成田山新勝寺
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別院・分院・末寺・末教会を合わせて全国に71カ寺ある[19]
関連施設

成田山仏教研究所

成田山勧学院(真言宗智山派宗内教育機関)

学校法人成田山教育財団

成田高等学校・付属中学校

成田高等学校付属小学校

成田幼稚園

はぼたん幼稚園


社会福祉法人成田山福祉財団

成田学園(児童養護施設


公益財団法人成田山文化財団

成田山仏教図書館

成田山霊光館(歴史博物館)

成田山書道美術館


所在地と交通正月三が日の成田山門前の表参道風景。

所在地:千葉県成田市成田1

成田駅JR東日本)、京成成田駅から徒歩約13分。元々成田線京成本線(敷設当初はそれぞれ成田鉄道[初代]と京成電気軌道)は成田山参拝客輸送を目的に敷設された鉄道である。

東関東自動車道成田ICで降り、国道295号の『寺台インター』を直進して国道408号を利用するか、左折して国道51号を利用する。市中心部の主要交差点には番号が振られており、この誘導に沿えば駐車場へ入れる。

なお明治末から1944年(昭和19年)までは、成宗電気軌道路面電車。のち成田電気軌道、成田鉄道(2代)を経て鉄道事業から撤退し現在は千葉交通)の不動尊電停が新勝寺の門前に設置されていた。総門のすぐ東側から南方向に伸びる道路(電車道)は、この廃線跡を転用したものである。

その他明治天皇成田行在所

境内には「明治天皇成田行在所」の碑が建てられている。1881年(明治14年)6月および1882年(明治15年)6月に、明治天皇が千葉県下の下総種畜場(後の宮内庁下総御料牧場)へ行幸する際に成田山を行在所(あんざいしょ)と定めた。行在所は1933年(昭和8年)11月に史蹟として文部省より指定されたが、1948年(昭和23年)に他の明治天皇関連史跡とともに指定解除されている[20]。光輪閣後方に現存しており、2014年(平成26年)に修復工事を行った。

高幡不動金剛寺などとともに、関東三大不動の一とされる。関東三大不動の残り1か寺については不動ヶ岡不動(總願寺)、大山不動(大山寺)および高山不動(常楽院)等が挙げられる。また、高尾山薬王院川崎大師平間寺とともに真言宗智山派の関東三大本山のひとつとなっている。

東京別院深川不動堂東京都江東区)、川越別院本行院埼玉県川越市)、名古屋別院大聖寺愛知県犬山市)、大阪別院明王院大阪府寝屋川市)など日本各地に別院がある。

太平洋戦争前、「鉄砲の弾から身を守る札」として、身代わり札が流行した。皇紀2600年の大祭を避けて、前倒しして行った開基1千年祭で、想定以上に奉納金があったため、成田山号と名づけられた戦闘機を海軍に、新勝号と名づけられた戦闘機を陸軍に献納するなど、積極的に戦争に協力した。太平洋戦争中には必勝祈願、鬼畜米英調伏として、成田山新勝寺としては2回目、1千年ぶりの「調伏」の秘儀を行うものの、効果はなかった。

平将門の乱平定に関わる由緒から、将門を祀る築土神社神田明神の氏子を始めとして将門所縁の人々の中には現在に至っても成田山参拝を良しとしない風潮が残るとされる。(→平将門#調伏伝説

毎年立春の前日節分の日に節分会が開かれ豆まきが行われる[21]。不動明王の前ではさえ改心するため鬼はいないとされており、成田山では「鬼は外」を言わず、「福は内」のみを言うのがならわしとなっている。特設舞台を設置して、「特別追儺豆まき式」を行う。特別追儺豆まき式は3回行われ、そのうち第1回・第2回には、大相撲力士とその年のNHK大河ドラマの出演者がそれぞれ5名程度、更に成田山所縁・信徒の芸能人(前述の成田屋の屋号を名乗る歌舞伎役者、島津亜矢新浜レオンなど)が「特別年男」として豆まきに参加する[22]。なお、『風と雲と虹と』(1976年)のみは平将門が主人公であったことから、創建の由来に配慮して将門役の加藤剛を始めとした出演者は参加を見合わせている。

節分後の2月中旬から成田山梅まつりが実施される。梅まつりは昭和30年代半ばから新勝寺大本堂奥にある成田山公園で毎年開催されている[23]

成田山新勝寺としてのテレビCMは、関東地方の民放キー局では初詣前後にしか行わない。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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